を描きました。私の想像図なのでうまくは出
来て無いかもですが。がんばりました。
戦のときは橋を壊したり、橋の前後に柵を造ったと
思います。
まず下の高屋城図で位置を確認してください。
前回と高屋城紹介2を見てもらうと根拠が分ります。
右端が切れてますので、拡大で見てください。
上図は前回と同じ想像図です。
不動坂門(搦め手門)の想像図
私の描いた想像図です。
次に南大手門の想像図です。
今は存在しないものなので想像図ですが、
だいたいこんな感じだと思います。
1575年廃城になるまでの約100年間は戦国時代で
この城は畿内では、もっとも多くの戦いがあった所で、
畠山氏はこの間家督争いで衰退し、政長流は徳川家の
高家(吉良と同じ)となり、義就流は所在不明になり
ます。一部は政長流の家臣になったという説もありま
すが、両流派にしても小さくなっているので、多くの
家臣は帰農したり町人になったと思います。四国から
来た三好氏も徳川の家臣となったり帰農しています。
大名としては成立しませんでした。最後の城主三好
康長も信長や秀吉の家臣になるのですが、豊臣家滅亡
とともに行方不明になります。武士をやめた可能性が
高いです。
三好の傀儡だった堺公方の足利家も義冬は、もとの
阿波国平島に逃げ戻ったため平島公方と呼ばれた。
長宗我部支配下で数千石を与えられた。江戸時代には
蜂須賀家の支配となり、盗賊の家臣にはなれないとい
うことで、客分として100石を与えられる。足利は
名乗らせてもらえず平島姓であった。江戸後期には京
都に出たので町人扱いとなり、明治維新では平民にさ
れる。華族どころか士族にもなれず。(ノ_・。)
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