ノイミーちやん5周年コンサート夜の部のシャッフルでしおみるの「ピオニーズ」が披露されまして、曲を聴いた時から改めて歌詞を読んでみようと心に決めておりましたので、読んだ中で気になったことなどを書き連ねてまいります。

 

 

この曲に限った話ではありませんが、妄想乙、な部分も多分に含まれますのでご容赦いただければと思います。

萌子ちやんも2人の世界は人それぞれと言ってくれてますし……

 

それにしても読めば読むほど、MVを見れば見るほど、この世界にはまっていってしまい、「ピオニーズの世界観におぼれちゃったよぉー(CVさややん)」と、若干酸欠気味ですが、まいります。

 

 

萌子(ロングヘアの子)&なんかち(ショートヘアの子)の話ではありませんが、便宜的にそのように記載してまいります。

 

曲の世界観をびったびたに表現しているMVはこちら

 

 

 

 

 

  全体の雰囲気

 

閉ざされた空間で、複雑な愛と感情の中にいる2人の姿が描かれます。

ワードを並べるならば、支配、偏愛、狂気、独占、閉鎖、人形、無知、不幸・・・

なんとなくマイナスなイメージのあるワードが並びます。

 

さっと聞いた感じでは「萌子→なんかち」の一方的な愛の形が描かれているのかなと感じましたが、MV上の演出や歌詞の表現を見ると、そうでもなく「なんかち→萌子」という、前述の一方的な愛とは別のなにかがそこには存在するのではないかと思いました。

 

この曲はユニット曲ですが、歌唱パートが1人ずつの部分と2人の部分に分かれており、1人パートはその気持ちを代弁しているのでは?という構成になっています。

 

 

 

 

  「萌子→なんかち」の世界観

 

横たわってる プリンセス

→なんかちのことをプリンセスとして扱っています。

 

 

君がいて 私咲き誇り

→サビ冒頭の表現です。

「君」→「なんかち」

「私」→「萌子」

曲中では私たちはピオニーズ(芍薬)であり、花であるため咲き誇るという表現が使われます。

 

君がいることにより、私は輝くことができるのだという、強い依存感が出ています。

MVを見ても「萌子」→「なんかち」の支配感がありますが、形としては支配しているようで、相手がいなくなってしまったら立ち行かなくなってしまう脆さを孕んだ支配ではないかと思います。

 

 

誰に躾けられたか

→踊っている「なんかち」への表現で、解釈としては下記3通り考えてみましたが、2人きりと歌詞内で多用していることからも、①かなと思っています。

①自分で踊るように躾けておきながら、すっとぼけて、『誰に躾けられたか』とか言っちゃう狂気性の提示

②本当に誰か別の人に躾けられた

③特に誰に言われたでもなく、「なんかち」が自発的に踊っている。

 

 

くらり倒れ ベッドに行こう

→ん?なんか薬嗅がされてません?

コ○ンとか金田○とかでよく嗅がされるようなやつ…!?

 

 

喜びの感情は知らない

不幸一粒溶かした

助けてあげるわ

それでいい

→「萌子」は「なんかち」に対して、喜びの感情となるようなことはせず、不幸や辛い、孤独なことばかりを与えているようです。

そこで助けを求める「なんかち」に対して助けの手を差し伸べることで、2人だけの世界に暗く深く落ちていく(ように仕向けている)わけです。

 

 

ずっと愛し合うのピオニーズ

→前述のとおり、この曲では歌唱パート分けが意味を持っています。

ラストのサビの最後の部分は「萌子」1人の歌唱となっており、愛し合っている(と思い込んでいる?)のは「萌子」だけのようです。

「なんかち」側が思っていないのは、『ずっと』の部分なのか、『愛し合うの』の部分なのか、はたまた両方か……

 

 

 

 

  「なんかち→萌子」の世界観

 

私見て 君は咲き乱れ

→この部分は何も考えずに聞くと、お互いがお互いを見て、きれいに咲いているという比喩をしているように聞こえますが、実際には両者とも、「萌子」のことを歌っています。

 

 

「萌子」目線ではでは咲き誇っていましたが、「なんかち」目線では咲き乱れています。

少し違うだけですが、感じ方はだいぶ違います。

 

辞書的には、「咲き誇る」も「咲き乱れる」も花が見事に咲いている様子を示す言葉ですが、「咲き誇る」は一輪の場合でも使うのに対して、「咲き乱れる」はたくさんの花が入り乱れたように咲く様子を示します。

この場合ではたくさんの花が、というよりは、言葉どおり咲いて、乱れてしまっているというニュアンスで言葉を使っているのかなと感じました。

 

 

世界は広いらしい

今日は窓を開けよう

いつかそんな日が訪れるの?

→「萌子」に支配され、囚われている「なんかち」ですが、外の様子を全く知らず、興味がないわけではなく、外の世界に対して関心・興味を持っているようです。

 

そんな中でも「なんかち」は外の世界に行ってしまうことはなく、「萌子」の世界の中で踊り続けています。

前述したように、「萌子」の支配は、支配でありながら実質的には依存状態であり、そのことを「なんかち」も分かっているからこそ、孤独や不幸が苦しいとは思いつつも離れることはない、という状態になっているのだと思います。

 

 

こつり 響く足音

それを合図に踊りましょう

→前段の「萌子→なんかち」の世界観でも出てきますが、ここではこんな風に考えてみました。「なんかち」が躾けられて踊らされているのか、自発的に踊っているのか、どちらで捉えるかで意味合いが変わってくるかと思います。

 

①躾けられて踊らされている場合

プリンセスである「なんかち」に対して舞踏会のように踊ることを躾けたのが「萌子」である場合、ここには反骨心が見えるような気がします。

つまり、足音が鳴った(=「萌子)が来た)から踊っているのです。そこには躾に従う行動もありつつ、自らの意思を感じます。

 

②自発的に踊っている場合

「なんかち」が自発的に踊っている場合、「萌子」の足音を舞踏会の始まりの合図のように踊っていることになります。

「萌子」が「なんかち」に求める役割を、「なんかち」自身が理解し、その役割を演じているという描写になりますが、2Aの歌詞としては少し違和感があります。

(ラスサビくらいのシーン出てくるのであればまだわかりますが)
 

 

君の眼差ししか知らぬまま

→「萌子」と「なんかち」は会話をすることはなく、視線を重ねることで愛を深めています。

それくらい、「見る」「目が合う」「眼差し」といった表現が多く出てきます。

 

しかし、2サビ~落ちサビでは、肌に触れる、抱き合う、キスをするふりをするなど、視線を重ねていただけの状態から、1段上のスキンシップを取るようになり、より仲を深めている様子が描かれています。

 

 

 

  MVで描かれる2人の関係性

 

 

上記は歌詞からの解釈ですが、MVを合わせてみることでより映像的に、また歌詞の解釈を補強してくれるような表現が描かれています。

 

 

横たわっている「なんかち」

下記は冒頭と最後の「なんかち」ですが、いずれも横たわっています。

1人では立つこともできない、無垢で弱い存在として描かれているようなシーンですが、よく見ると最後のシーンでは「なんかち」の方から萌子に対して手を伸ばして、立たせるよう仕向けているのです。

そこにはか弱いだけの「なんかち」はもういないのでしょうか……?

 

<冒頭>

 

<最後>

 

 

 

外の世界への興味

外の世界に対して興味を持つシーンも印象的に描かれています。

1枚目は楽しそうな「なんかち」に対して、「無」の表情を携える「萌子」…見事すぎて怖いですね

 

 

 

 

ずっと愛し合うのピオニーズ

 

「なんかち→萌子」への気持ちをMV上で最も印象的にしているシーンがこちらです。

ラスサビ部分ですが、1枚目で「なんかち」の目を塞ぎ、外の世界や見せたくないものが見えないようにガードしている「萌子」ですが、その下で「なんかち」は薄く笑っています。

 

1番までの表情からすれば、このシーンは、『どうしたの?何があったの?』という困惑の無垢な表情になるところかと思いますが、明らかに違う表情で描かれています。

この部分が、「なんかち」は「萌子」の支配を知りながら、それを甘んじて受けているという解釈につながると思っています。

 

 

 

 

  最後に

 

 

ブログを書くために始めたピオニーズの視聴ですが、やり始めたらずーっと頭の中でピオニーズがリピートするイヤーワーム現象が発生していました。

 

いつも萌子ちやんのパフォーマンスを見ると、物語を感じると、コメントしていたような気がしますが、この曲で如実にそれを感じるのは、2人の中の解釈や理解が、ダンスの表現としてあふれ出て伝わっていたからなのだと、今更ながら理解しました。

 

アッパレちょこもなか!!!

 

そしてなんなら、この解釈を踏まえてしおみるのピオニーズをもう一回見たいですね!!

 

長文お読みいただきありがとうございました。