壁の前でもがくだけでは捗らない。

まずは、壁を眺めるだけでいい。触るだけでいい。
ザッと全体を見ることだ。
葉を見るんじゃなく森を見よう。

そして課題の6割をこなすだけに集中しよう。
そびえ立つ壁以外に、小さな壁が無数にあるはずだ。
小さな壁を超えるために何が足りないのか把握する事がキモだ。そして埋めていく事だ。

その次はまた全体を掴む事だ。最初に触れたよりも深く掴めるはず。

その次は課題の8割をこなす事だ。
自分の足りないところを把握する事だ。
その足りない事を埋めていく事だ。

それを多角的に重ねていく。
廻り道をしても、努力を連ねて行く覚悟が必要だ。

頑張れてるならそれでいい。

一つ忠告したい。燃え尽きるのは努力じゃない。
溺れてるだけだ。

懸命にしてもノルマの半分しか出来ないのは、やり方に無駄が多いという事。

無駄を省いて目標に達するのが近道だが、長い人生、廻り道を沢山歩いた経験も必要だ。

無駄を省く技術はまだ早い。
愚直に苦労して失敗を重ねてもいいさ。
頑張れ👍


見通しが良くないから、撤退する。
頑張っても無理だと思うからやめよう。
概ね間違ってないだろう。
無駄を省いた合理的な判断だ。

その限界は自分で作ったものだ。死力を尽くした限界ではない。


目的別に3つに問題集を分けてみた。
①単純知識インプット用
②知識の体系化用
③情報処理と分析の鍛錬用

③は実は教科に依らない。要は問題文の条件を読み取って整理して、問われている事に即した形に持っている知識を整えて適切に答えるための鍛錬だから、科目がちがつてもやる事は一緒だ。そして、地頭を鍛えるには③というイメージがある。

テストの点数に結びつくかどうかは、学習の最後の2割でしかない③が大きい。大半の8割の時間は①と②にかけることになるが。

塾なし家庭学習的には、③を6年9月からステップアップしていくのが良いと思う。
振り返ればずっと一問一答的な学習だった。指導者なしだから、ひたすらに基本知識の入力という土台作成に終始せざるを得なかったけど、ようやく終えた感がある。

やっと、きちんとデザインされた問題で条件整理と論理的分析と推論するという本来させたかった学習を始めた。

11月から3月まで、5ヶ月弱もある。あっ、中学受験過ぎてるけどな。知識の使い方と情報処理の仕方と論理性について学習して欲しい。こっからが本質的に意味がある事なんだから。

ところで、中学受験まで11週間。
人事は尽くせ。頑張れ!







塾だったり家庭教師だったり、指導者がいれば解答だけでなく、関連性や系統だった捉え方にも触れて理解が早くなるだろうが、やる事は変わらない。

その時の丁度いいレベルで解説が分かりやすい問題集を繰り返して、難易度を上げてステップアップしていくだけの家庭学習でいい。

実際の日々の学習は、教科ごとに問題集を開いたり閉じたり、直接書き込むと繰り返して使えないからノートに書いて、となると煩雑なので1日分のプリント束を作ってやる事にした。

①問題集を選定する。
②裁断してスキャンしてGoodReaderで管理する。
③エコタンクプリンターでA4にプリント化しておく。
④4教科のプリントからそれぞれ必要な分を抜き取って、1日分のプリント束にして、直接書き込んで使う。
⑤自分で解き切れるまで印刷して繰り返す。
⑥さらに苦手問題だけのページ集も作っておけば効率的に繰り返せる。

ちなみにこれをやっていると、問題集はメルカリで半額でいいかと思う。どうせ裁断するからそれで充分だったりする。それで用意した受験突破シリーズの社会は、10年弱前版と2年前からの改訂版があるのだが同じ問題と違う問題になってるところとあって興味深い。地理は数値が違ってもグラフの形は大体同じで古い問題でも問題なさそう。公民は議員数とか新しい問題集じゃないとダメだ。
人によって勉強に要する労力には違いがある。

勉強というのは強いて言うと知識入力と演習に分けられる。演習では地頭の違いが出る。演習がスムーズに進むかどうかは、知識が足りないのか、理解と分析が足りないのか、とにかくなんらかの欠如なのだろう。

演習がスムーズに進む場合はその中で基礎的知識も要領良く入れていける。そういう子はすぐに勉強が終わる。演習に難儀する場合は、まずは基礎を徹底しておかなければいけない。演習ができないのは、問題文の条件が拾えないのか、理解できないのか、そもそも知識が足りないのか、論理的に答えを導けないのかだが、それらの問題はまず知識を入れてから鍛える必要があるのだ。

(算数なら四則演算と解法パターン。国語は語彙と接続語と助詞の使い方。社会は名詞と語句と気候と産業の条件、歴史情勢と社会ルール。理科は現象の論理背景と実験条件の注意点とグラフや表の使い方)といった基礎的知識を持って、分析と論理的推測を鍛えていくことが演習の目的だ。これがスムーズに行かないなら、まずは基礎的知識を前もって整えておく必要がある。

地頭のよろしくない人は、基礎的知識の入力を固めてからが本当の勉強になる。条件を拾って問われていることのポイントを理解して、整理して解くという勉強にはじめて集中できる。

だから、8号目までは延々と基礎を固めないとならない。勉強して成績を上げるというのは最後に待っているのだ。








わりと読書万能説は流行りやすいのだと思う。

単純明快で比較的楽な手段の読書だけで学力あげられるという点で、なんとかダイエット法の類と一緒だ。

日本の戦後教育の70数年の中で、それがスタンダードにならないことから、万能じゃないのは明白なのだ。音読だけで国語の学力がつくなら苦労しないし、暗記算数だけで学力がつかないのも当たり前だ。

その上で、読書は語彙を身につけ、自問自答の機会を増やすから学力向上に有効だと思う。

地頭が良い子というのは、Aという規則性とBという現象から、関係性の法則を仮定して、実証して、その理論を他にも当てはめていくという事が容易なのだと思う。こういう事は読書を通して、書かれている世界の法則性に納得したり、疑問に思いながら自分の想像力を刺激して追体験・自学自習をすすめられるのかなと思う。

理科の規則性や社会の問題になりやすい事がスッと入って行かないんだなーと子供の学習を見ていて、あー、もっと読書でそこを刺激しておくべきだったかなと思う事がちょっとある。


家庭学習で親がどこまで介入するか。
そもそも介入した方が良いのか。
介入して効果があるのか。

これは、華々しい中学受験の勝者にもかかわらず、沈んでいくケースがあるのが不思議だと思うのと、そういう子供は中学受験などしない方がよかったのではないかと思う要素の一つ。

学習のモチベが低い、自分の弱点がわかってない、理解したと出来るとは違う段階だとわかってない、その差が埋められない、淀みなくできないと確実な得点に至らない。こういう自己の現状把握と目標設定ができないと感じると親は介入したくなる。

問題は、そこまでして介入しても長期的な意味合いに疑問が残ることだ。確かに目先の課題習得率は高くなるだろうけど、自分で課題を見つけることが避けて通ることで、長期的にはデメリットとならないだろうか。

世の中の入学テストなぞは、所詮は模倣しうる範疇でしか作られない。独創的な問題なんかはそれこそほとんどなく、あってもそれが合否の境となることもない。自分の理解不足な課題を把握して、粛々と学習するだけだから、塾なんかなくてもいい。問題は課題設定とやるかやらないかでしかない。


塾に行くって事は偏差値60以上を目指すことだと思う。偏差値60以上の子にとってはちょうどのペース。55ぐらいには刺激のあるペース。50だと刺激がない。。。

偏差値50程度の学力向上には何が本質的か。

成績を上げたい理由はなんとも貧相なもので、普通の進学と就職の中で、年収2000万円と1000万円と400万円コースで、より金額的に好条件が良かろうからという打算でしかない。確かに貧しくても幸せな家庭環境が得られるというよりは高収入を狙う方が楽な気はする。

パネライもシチズンも同じくらい興味がないし、フェラーリも欲しくない。2万円の寿司じゃなくても、3000円の寿司で幸せだから、程々の学歴で良さそうだが。

いい給与のための就職、いい大学、いい高校、いい中学、サピックス、早期教育。なんとも子供に対する愛情は比例対数的に激流を求めて行く。

一体、誰が生えてくる草を牛がいつまでにたべ終わるのかを知りたいのか。誰が見たらおおぐまに見えるのか?というような星座や、一番東と言いつつ南鳥島という単なる知識について勉強する事は、好きな本に没頭したり、体感する機会、興味ある事を調べたり想像する機会の代償で成り立っているのかもしれない。塾に行っても偏差値50ちょっとの子供にとって、どちらが良いのか。

偏差値50程度という事は知的好奇心のスイッチを押せていないからだ。学習はスイッチを押す必要がある。