游刃有余地
鍼灸師という仕事を考える時に、いつも頭の片隅にある話があります。中国の古典『荘子』の養生主(ようせいしゅ)第三にある庖丁(ほうてい)と文恵君(ぶんけいくん)との問答です。
庖丁(ほうてい)とは、庖人(ほうじん)つまり料理人の丁(てい)さん、ということです。この話がもとで庖丁という言葉ができたといいます。文恵君は中国の戦国時代、梁(りょう)の国の恵王を指します。
その問答とは次のようなものです。
文恵君が料理人丁の評判を聞いて、目の前で牛を解体させたところ、あまりに見事で、技も奥義を極めるとこんなにもなれるものかと、感嘆の声をあげた。それに対して丁は牛刀を置いて、
「お言葉を返すようですが、私が求めるところは道でございまして、技以上のものでございます」
と言って訥々(とつとつ)と語り始めました。
「はじめの頃は、目にうつるものは牛ばかりでしたが、そのうちに筋肉や臓器に隙間が見えるようになってきたのです。さらに年月を重ねると、形を超えた心のはたらきで牛をとらえ、目で視て(形に頼って)仕事をすることはなくなりました。官知すなわち、あらゆる感覚器官に基づく知覚は影をひそめ、神欲すなわち、精神の働きだけが動いているのです。天理すなわち、牛の体にある本来自然の理(すじめ)の従って、大郤(たいげき)すなわち、大きな隙間に刃を走らせのですから、容易に解体できます。そのせいで私の牛刀の刃は19年も使っているのに、砥石で研いだようで、刃こぼれがありません」
これを聞いた文恵君は、
「素晴らしいことだ。私は庖丁の話を聞いて養生の道を会得した」
と感嘆しました。
庖丁のように道を極めれば、世間が大きくなり長生きできるということでしょうか。
牛の解体と一緒にしては申し訳ないのですが、鍼治療においても隙間はとても大切です。鍼灸師として臨床経験を積むにつれ、筋肉や臓器の隙間、そして経穴(ツボ)という空間の大事さを感じるようになりました。この空間に中医学でいう気の存在を感じたのです。
この空間には生命エネルギーの場が広がっていて、全体的(ホリスティック)に生命(いのち)をつかさどっているのではないか、と。
私にとっては、人間を丸ごと捉える中医学(全体的、ホリスティック)の原点です。
横山大観(1868~1958)には、この荘子の庖丁の話を題材にした「游刃有余地」(ゆうじんよちあり)という作品があります。東京国立博物館に所蔵されています。日頃、大観は「画面上に宇宙を表現できなかったら、それは芸術ではない」と語っていたといいます。大観も庖丁の見いだした隙間に宇宙を感じとっていたのだと思います。
游人有余地
絹本着色 大正3年(1994)
中国の料理の名人丁が、文恵君(梁の恵王)に、技よりも道の探求が牛の解体の極意であることを話す。文恵君は、その話を聞いて養生の秘訣(道)を悟る。
『荘子』養生主(ようせいしゅ)第三の第二話に取材した作品。丁と恵王とその妃の衣を大胆に色分けして、画面を構成する。
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