娘が小学校6年生の時に、
横浜市主催のオーストラリア短期留学という企画があり
それに参加したのが、娘の海外志向の始まりだったと思う。
その後、娘はアメリカに留学したいという希望があったのだけど
アメリカがどんな場所か、夢物語ではないということを知って欲しかったので
姉と姪が住んでいるロサンゼルスに、2週間ほど連れて行った。
その頃の私は、仕事も順調だったので、
渡航費用などは気にせずに出すことができた。
夫とは険悪なムードだったので、一言も相談せず経済的に頼ることもなく
さっさと娘を連れて行ってしまった。
アメリカではかなり怖い思いもしながら(2度も変質者に追いかけられた)
姪が通う、南カリフォルニア大の授業に出てみたり
レンタカーを借りて、危険なダウンタウンを運転して
LACMA(ロサンゼルス・カウンティ美術館)まで行ってみたりした。
その後、娘は、大学の春休みを利用して、
交流ビザでアメリカのグレーシャー国立公園でしばらく働いたり、
ニュージーランドに語学留学をしたりした。
まるで金持ちの道楽のように聞こえるけれど
仲介業者を通さずに自分でアポイントすれば
お金をかけずに海外に行くことは、結構可能な世の中らしい。
娘が大学4年のときに震災があり、就活は本当に苦労した。
ゆとり世代とか、第二の就職氷河期なんて言われた時代で
新卒カードを保持するために、留年する人などもいた。
娘は丸の内の小さな輸入商社に就職し
そこでようやく社会の荒波に揉まれることになった。
噂に聞いていた日本社会の『男尊女卑』や『年功序列』の理不尽さを体感して
女性が企業の中で生きていくことの大変さを痛感し
さっさとそこから逃げ出した母の気持ちも理解してくれたようだ(笑)
その後、ワーキングホリデーでカナダで1年過ごした。
その間に、彼女はかなりたくましくなったと思う。
単身、キューバやメキシコを旅して、漂泊の面白さにハマってしまったらしい。
その時に一番危険だったエピソードは
カナダの湖でグリズリーに遭遇した話かもしれない。
突然日本にいる私のところに「さっき、熊に会った」と、ラインが来て驚いた。
まぁラインが来るんだから無事だったわけだけど。
それからまた3年ほど、丸の内で企業受付をやって、資金が貯まったので、
今度はシルクロードにバックパッカーになって行ってしまった。
シルクロードでの移動は、ヒッチハイクが中心だというので
我々日本人には、よくわからない世界だと思う。
パキスタンを旅している時は、警察が警備をつけてくれたらしい。
カラシニコフを持った警備が2人ついてくれて、
しかも食事もタダでもらえたというのでいうのだけど
帰ってから、3年ほどして、
タリバンがアフガニスタンを制圧したというニュースを聞き、ぞっとした。
実際、その時は、タリバンの勢力はほぼ消えたと現地でも言われていたのだが
実は水面下で、勢力を浸透させていたらしいということは、
時が経ってから、知ることになる。
ウイグルにいた時もあった。
中にいると本当にウイグル人が弾圧されていることはよくわからないらしい。
ウイグルの人々はとても温和で、良い人たちだったという。
ただ、彼らが自分たちの境遇をどう感じているのかまでは
ウイグル人とも、中国人とも深く話せるような状況でもなく
ウイグル人が必ず持たされているIDカードや、漢字の看板などに
違和感を感じつつも、旅人として傍観するしかなかったという。
そんな話を聞くと、今起きている戦争についても
ロシア国民には、状況はよくわからないのだろうなという想像がつく。
戦争中、我々の父母、祖父母が、
大本営の発表を鵜呑みにするしかなかったように。
中にいる人たちには、現実が見えていないということは
多々あることなのかもしれない。
娘はシルクロードから帰ってきてから、国際ボランティアの仕事で
日本語教師(現地人)のアシスタントをするために
マレーシアに行ったのだけど、1ヶ月でロックダウンになり帰国。
帰ってきてからはコロナ禍の中、都心は怖いので上高地で働いていた。
その時に一人で、北穂・奥穂・前穂・槍などに登りまくっていた。
すっかり山に目覚めてしまったらしい。
現在は台湾で、ボランティアの仕事をしている。
彼女が今後、何をするのか、楽しみでしょうがない(笑)