陸奥國一之宮・都々古別神社(福島県東白川郡棚倉町馬場)
都々古別神社(つつこわけじんじゃ)。
福島県東白川郡棚倉町馬場に鎮座。
御祭神は味耜高彦根命(アヂスキタカヒコネノミコト)。
社格は明治六年三月七日、国幣中社に列格。
延喜式神名帳に『陸奥國白河郡名神大社 都都古和氣神社』と名の残る延喜式内名神大社で、陸奥國一の宮。
社伝によると、およそ二千年前の第十二代・景行天皇の御代、日本武尊が東奥鎮撫の折りに関東奥羽の味耜高彦根命を地主神として都々古山 ( 現在の西白河郡表郷村。名を建鉾山とも。)に鉾を建て、御親祭せられたのがはじまり。
都々山は古代祭祀場たる磐境であったと考えられている。
その後、第五十一代・平城天皇の御代、大同二年(807年)に征夷大将軍・坂上田村麻呂が伊野荘 ( 現在の棚倉城址 ) へと奉遷。
社殿の造営をおこない、都々古和気神を創祀した日本武尊を相殿に配祀している。
江戸時代になると、寛永元年(1624年)には棚倉藩主・丹羽長重公 ( 信長四天王・丹羽長秀の長男 ) が幕命により棚倉城の築城をおこなうこととなり、現在地へと遷宮。
この遷宮の際には社領を添加し、社殿を解体し移築したらしい。
歴史も深く、強い崇敬を集めたため、坂上田村麻呂、源頼義・義家親子など多くの人によって社殿の造営や神領寄進がおこなわれていたそうだ。
応永年間(1394~1428年)には室町幕府三代将軍・足利義満の命により造営が行われたらしい。
現在の社殿は、太閤・豊臣秀吉の命により、文禄年間(1592~1595年)に佐竹義宣が奉造したものとのこと。
さてさてさて。
石都々古和気神社 に続いて御紹介するのは、同じく陸奥國一の宮といわれる、棚倉町馬場の都々古別神社。
棚倉町には二つ都々古別神社があって、どちらも国幣中社に列格しているんですが、こちら(馬場)の都々古別神社の方は明治六年。
もう一方の八槻都々古別神社は明治十八年に国幣中社となった。
というのも、こちら(馬場)の都々古別神社が国幣中社になった際に「うちこそが式内名神大社の都々古別神社だ!」と八槻側が異を唱えたため。
それ以降、しばらく論争が広げられたものの、明治十八年に両社ともに国幣中社とすることで終息をむかえた。
そんなわけで棚倉町というひとつの町に国幣中社が2社あるわけですが、そもそもなぜ都々古別神社が2社あるのか、もともと2社だったのか、2社でひとつの神社だったのか……その辺りは良く分からないらしい。
ちなみに。
明治より前はこちら(馬場)の都々古別神社は「都々古和気神社」の字を使っていたそうですが。
明治時代の太政官符には「別」の字があてられており、明治以降は「都々古別神社」の字を使っているそうです。
【 一の鳥居 】
こちらは棚倉町役場ちかくの一の鳥居。
一番上の画像の社号標もこの鳥居の隣にあります。
ちなみに、福島県内では社号標の社格の部分をセメントで塗り潰しているところが多いんですが……
ちょっともったいない気がしますねえ。
国幣中社でさえ塗りつぶしちゃうって……
【 二の鳥居 】
先ほどの一の鳥居からまっすぐ、しばらく進んだところにある二の鳥居。
こちらから本格的に境内になります。
ちなみに、参拝したこの日は石都々古和気神社にお参りしたのと同じ日。
11月も中旬を過ぎて、正午をちょっとでも回るとすっかり光の色も夕焼けの橙が滲んだような、どことなく寂しいような色を帯びています。
でも、お参りしたのは確か午後一時くらいだったかなあ。
秋の日差しというのはよくわからんです。
あ。御朱印をいただく方は要注意!
こちらの鳥居の近くに宮司さんの御自宅の案内の紙が貼り出されています。
参拝前に御朱印帳を預けてからお参りするとよろしいかと。
宮司さんは学校の校長先生もされているそうで、たいていの場合はお留守番のおばあちゃんが書いてくださいます。
どうしても宮司さんに書いてほしい!という方は事前連絡は必須かと。
上の画像の鳥居の脇にある社号標。
こちらも社格の部分が塗りつぶされています。
ここまで徹底してやらなくても……と思うんですが…… (´・ω・`)
社格制度が廃止された当初はどうだったのか、今に生きる自分には分からないんですが、「国幣社」という響きには惹かれまして。
そんな格の高い神社が福島県内に三社もあったんだ!と誇らしい気持ちになったりするじゃないですか。
先ほどの二の鳥居の手前にある橋。
菊紋の装飾がほどこされていて、小さいながらも品格を感じさせますね。
二の鳥居をくぐってちょっとのところにある石灯籠。
苔がモッサァと生えていて、石灯籠の画像を撮りまくってるおいらにはテンションが上がりまくる光景。
【 手水舎 】
参道を進んでいって、左手にある手水舎。
この手水舎の向かい側には立派な社務所があるんですが、宮司さんがお忙しいためか普段は無人のようです (´・ω・`)
【 随神門 】
手水舎から少し先にある随神門。
境内は高い木々に囲まれているため、差し込む光が随神門の屋根にいろんな形の影をうつしだしていて面白い。
ちなみに、随神門の上の部分にはこのような『陸奥國一宮』の額が掲げられております。
……で。
以前お参りした時は境内には他に誰も居なくて、旧国幣中社ながらも非常にひっそりとした境内だったんですね。
国幣社で、別表神社でこんなにひっそりした、ゆっくりとした時間が流れているところがあるんだ……とその時は驚いたものです。
ところが、この日は他にも参拝者が居てですね、撮影した社殿付近の画像に写ってしまっていたので……
「肖像権」というやつを考えて、ここからしばらくは昨年の九月にお参りした時の境内の様子を。
随神門をぬけると、社殿までの参道には石畳。
でもこの石畳、苔がけっこう生えててですね……ツルっといくんです。
気をつけて歩かないとコケるかもしれませんので、御注意を。
【 三の鳥居 】
社殿の周りを囲む垣に立つ、木造の明神鳥居。
こうした垣のところに立っていると、本当に鳥居というのは神域の入り口なんだなと感じますねえ。
【 拝殿 】
歴史を感じさせる造りの、風格がある拝殿。
秀吉の命で造られたということは桃山時代の建築なのだろうけど、桃山時代=華美な建築というイメージとはちょっと違った様子。
桃山=華美と思っているのはおいらだけかもしれませんが。
ちなみに、ところどころ補修したのか、ガラスのサッシが入っていたり。
時代に合わせて拝殿も手直しを繰り返してきたのかもしれません。
【 神楽殿 】
拝殿向かって左手にある神楽殿とおぼしき建物。
さて、そんなわけで他の参拝者が写っていた部分が終わったので、ここからは再び昨年11月参拝時の画像で境内を御案内します。
【 境内社 】
拝殿の向かって右側にある境内社の数々。
延喜式内名神大社らしく、たくさんの境内社が有ったんですが拝殿に近いところのものしか撮影しておりませんでした(´・ω:;.:...
【 本殿 】
大きくて立派な風格ある本殿。
拝殿の右側を通りぬけていくと見れるんですが、結構木が生い茂っているので普通に参拝するだけの人はここまで見に来たりしないのかも。
うーん。そう考えるとちょっともったいない。
さて、これで境内は一通り御紹介したんですが。
こちらの境内は木々が多くてですね。
ちょうど紅葉が綺麗だったので何枚かその様子を載せてみたいなと。
拝殿前の参道の様子。
自分の立ち位置によって、光の差し具合が変わってですね。
同じ木の葉も様々な表情を見せてくれて面白いんです。
光差す参道と随神門。
地面に広がる落ち葉も綺麗……なんですけど、落ち葉って放射性物質がたまりやすいらしくて。
今年の秋は落ち葉は要注意ですね (´・ω・`)
さて、無事に参拝も済みまして、宮司さんのお宅へ。
境内に案内板があるのですぐに分かるとは思うんですが、二の鳥居の右側、二件目のお宅です。
こちらには二度参拝したんですが、そのどちらも宮司さんはお留守で……
前述のとおり、学校の校長先生をされているらしく、かなりお忙しいようです。
そんなわけで、宮司さんのお母様らしきおばあちゃんから御朱印をいただきました。
(通常の御朱印帳)
で、いただいた御朱印がこちら。
「留守番で書きなれてないもんだから、ごめんなさいねえ・・・」とおっしゃっていたんですが、宮司さんがいらっしゃらないのに対応していただいて、かえってこちらが申し訳ないです (;´・ω・`)
この時は全国一の宮御朱印帳も一緒にお願いしたので、「普通の御朱印帳の方はハンコでごめんなさいね」とのこと。
(全国一の宮御朱印帳)
で、こちらが全国一の宮御朱印帳に頂いた御朱印。
全国一の宮御朱印帳や福島県神社庁に登録になっているのは「都々古別神社」ですが、御朱印帳の墨書や陰影を見ると、明治より前に使用されていた「都々古和気神社」となっているようです。
近代社格制度の廃止とともに、旧称に戻したのかもしれません。
そんなわけでこちらの馬場都々古別神社。
境内の紅葉が綺麗で、これからの季節は特におすすめです。
石都々古和気神社とあわせて、陸奥國一之宮めぐりをされてみてはいかがでしょうか。
■ 都々古別神社(馬場)への地図
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◆ 神社の情報
都々古別神社 つつこわけじんじゃ
御祭神 : 味耜高彦根命、日本武尊
社格等 : 陸奥國一の宮、延喜式内名神大社、国幣中社、別表神社
鎮座地 : 福島県東白川郡棚倉町棚倉字馬場39
























