弦楽器の見分け方と個性的なマイスターのヴァイオリン | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

こんにちはガリッポです。

弦楽器ではニセモノが問題になりますが、資産として扱うにも問題があります。
持っているだけでなんとなく価値がありそうだとは思っていても金額として数字で表さないといけない場面もあるでしょう。
骨董品では専門家に価値を査定してもらう必要があります。


先週も一件問題が起きました。
裁判所から楽器の価値を証明する書類を作るように求められました。
400万円ほどの価値があると言われているヴァイオリンがあって、正式な書類を作って欲しいとのことです。しかし楽器を見ると修理代を差し引けばせいぜい10万円位のものです。
詳しくは言えませんが、依頼書には作者名も不明で金額だけをべらぼうに書いてありました。

一般の人は弦楽器の価値が分からないため、「専門家」の意見だけが頼りになります。それがデタラメでした。
師匠は「書類を作成する価値もない」と依頼者に説明しました。
これが弁護士なら30分単位で高額な費用を請求することでしょう。

その楽器を見ると量産品のように品質が安定しておらず、手作り感はあります。しかしヴァイオリン製作学校の生徒のものよりも劣るクオリティで材料もチープなものです。うちでは手作りだとしても量産品以下のクオリティのものなら量産品の最低ランクの値段にしか評価しません。

工業製品では機械で作られたものと手作りのものがあります。
例えば機械ではとても出せないような精度のものを高度な技能を持った職人が仕上げることもあります。一方手書きの文章が読みにくいように、手作りの方が品質が悪い場合もあります。
手作りなら機械で作ったものよりも品質が悪くても当然なのでしょうか?

弦楽器は1500年頃に形が出来上がったので、機械で作ることを前提に設計されてはいません。このため機械で高度な技能を持った職人以上の品質のものを作ることは困難です。小さい楽器ほど顕著で難しくなります。大きな楽器になると職人も細部まで精密に加工していてはコストがかかりすぎてしまいます。一方大きいほど機械で作るには適しています。このためコントラバスなどは無垢材でも100万円以下で作れます。

ともかく資産としては「専門家」のさじ加減一つで財産の金額が決まるのですから恐ろしいものです。クラシックの歴史ある国でもこんな状態ですから、弦楽器無法地帯の日本で楽器を資産として考えるのはリスクが高いですね。また子供やライフワークのために全財産を投入することがいかに危ないことか知るべきです。

私も日本の職人仲間に「信頼できる業者を教えて」と聞いても黙りこくって返事をもらえませんでした。心当たりがないのでしょう。

保険でも全損になった場合の補償額を巡って保険会社側が弦楽器の専門家ではない専門家の書類を元に補償額を決定したこともありました。弦楽器特有の条件を考えずに、一般の商品と同じように価値を査定していました。一般の商品ならカタログ価格から一定の期間を過ぎて価値を一定の割合でマイナスにするようです。損害額は保険を掛けたときよりもはるかに少なく計上されていました。戦前に作られたものでカタログ価格などは無く骨董品です。評価額が数年で下がることはありません。保険を掛けたときの評価額がそのまま損害になるべきです。楽器専門の保険会社でないとこういうトラブルは起きます。また、評価額は掛け金に影響してきます。少なくとも物価上昇分は楽器の価値が上がるので定期的に評価額を見直さないといけません。

他人事だと思ってさらっと読み飛ばしてしまうかもしれませんが、私にはどうすることもできません。


もう一つは趣味の分野としても成熟していません。
私は趣味がジャンルとして確立するにはメーカー、販売者、消費者の三つともが「バカ」である必要があると思います。
趣味の世界では「バカ」というのは誉め言葉です。釣りバカ日誌という作品がありますね。
メーカーはコストを下げて低品質なものを作れば多く儲かります。販売者は安いものを高く売れば儲かります。高学歴エリートで銀行出身の賢い経営者はそうするでしょう。

消費者はどうしたらいいでしょう?
たかが楽器なんてものに全財産を投入するというのがバカげています。
業者がずる賢く消費者だけがバカであると賢いメーカーと販売者に騙されてしまいます。
損するのに高品質にこだわるメーカーはバカでしょうし、正直に情報を提供して適正価格で売るのは「バカ正直」です。3者がバカなら成立するでしょう。

現状では消費者だけがバカなので搾取されます。
お客さんでもそのような人は少ないです。日ごろはぜいたくな生活はせず、音楽や楽器にだけにすべてをささげるような人は少ないです。特にヨーロッパの方がそういう偏った人は少ないと思います。

こちらでは夏休みに国外旅行に行くのが普通です。この前もお客さんが話をしていて、これからニューヨークに行ってそのあとは地中海のリゾートに行きますと言っていました。日本人と違って一週間どころではなく、何週間も行っています。学校の先生は夏休みも長いのでみなキャンピングカーを持っています。日本でキャンピングカーを持っているなんてどこの富豪かと思うわけですが地方公務員のレベルです。
旅行に行くためのお金には糸目をつけない代わりに楽器にはお金をかけません。夏休みには楽器の練習もしません。それがヨーロッパでは普通です。
夏に国外旅行にもいかず練習するなんてのはこちらでは変人の部類です。

日本人はとかくマニアックな人がいて一つのことにとても集中します。子供の教育でも楽器の練習が生活の中心になります。そこを突いてくるのが賢い業者です。


もともとクラシック音楽もお金持ちのパーティーの「出し物」に過ぎないと思います。芸術家がそんな仕事でも熱意を持っていたのは別の話です。その辺の感覚が日本人には分かりにくい所です。それがクラシック音楽を理解するヒントになるのではないでしょうか?

とにかくヨーロッパの人は集中力がありません。人が何人か集まるとすぐにパーティーが始まります。工房内はおしゃべりがうるさくて調整や試奏をする楽器の音が聞こえないくらいです。日本では考えられないくらいおしゃべりな人が次から次へと表れます。工員も無駄話ばかりしながら仕事していることでしょう。日本製品と違って品質が悪いのは当たり前です。仕事中におしゃべりして怒られるという発想がありません。おしゃべりな人が出世して偉くなっているからです。

好奇心が旺盛で聞いた知識が多く物事にこだわらず浅くとらえてバランス感覚があります。それが独特な西洋人の美意識ですね。


なぜ弦楽器の世界では大きな会社ほど品質が悪くなるかといえば、品質にこだわるバカな人の割合が少なくなっていくからでしょう。総合楽器店になるとさらに質が落ちますが、初心者には弦楽器専門店や職人の工房を訪ねるのは敷居が高いと感じるでしょう。最近ではアマゾンなどをはじめネットでも楽器を売っています。このため今でも99%は量産品です。品質にこだわる職人なら売るものは違ってくるでしょうがそんな人は大手の企業には就職しません。

イメージの話ですが1%は高品質な楽器があります。
その違いを見分けるのが職人の目です。作者が天才かどうかそういう事ではなく、コストを削減するために粗悪なものを作っているかどうかを見ているのです。また素人や不器用な「自信家」の職人のものは手作りでも自分に甘く同様に粗悪なものがあります。1かゼロではなく間があります。細かいグレードの違いを見ています。生産国はどこの国でも品質の悪いものと高いものがあります。品質の高い国と低い国があるのではなくどこの国でも粗悪品があります。粗悪品を作る人は、会ってみたらすごく常識があって感じのいい人かもしれません。むしろ高品質な楽器を作る人は頭がおかしい方の人です。

なので生産国名を見るのではなく楽器自体を見ます。これが職人以外の人と違う楽器の見方です。

品質が高いとは限りませんが何かのきっかけで有名になった作者のものはさらに1%以下、つまり0.001%にも満たないというのが私のイメージです。値段が品質を表すというレベルではなく桁違いに高価になるのはそのためです。無名な高品質の楽器なら100倍くらいは現存するし音が悪いわけでも無いので職人としては最もお薦めしたいものです。職人が選んだものの中ら名前にこだわらずにいくつか試奏して好みのものを探せというわけです。



しばらくしていなかった恒例の「3者のプロ」の話をまたしましょう。
弦楽器の良さを分かると思っているプロには3者あります。

①演奏家
②楽器商
③楽器職人

①の演奏家は楽器を用意すると楽器をちらっと見たかと思えばすぐに弾き始めます。がどうかと気にします。楽器の見た目の違いは分かりません。音大の教授でも量産品とハンドメイドの楽器を見分けることはできません。プロの演奏家が音で楽器を見分けた場合と職人が見た目で見分けた場合ではどちらが正しいでしょうか?パフリングの素材が量産工場で使われていたものならどんなに音が良くても量産品です。
作られたときから半分壊れているような粗悪品が意外と音が良いことがあって教師などに評価されることがあります。後で修理代がいくらかかるかわかりませんが、作られたときから酷いものは直しようが無いです。また偉い先生が持っているからといってニセモノではないということはありません。聞かれなければ言いませんが私が見てニセモノだなと思うことはあります。特に日本では偉い音楽家ほど怪しい業者が集まってくることでしょう。

②の楽器商にとっては安く買ったものを高く売ることが最大の成功であるため一番重視することはお金です。営業マンで自分も買い付けもするとすれば、自分の営業成績を高めやすいものです。私にとっては懐かしい話ですが、日本では会社に「朝礼」があって営業マンは今月の売り上げを言わされます。売上額が十分でなければ叱責されます。このため必殺のセールストークで「売れやすいもの」売上高である以上は「高く売れるもの」が何よりも重要です。音大卒の営業マンが音で選んだとしてもその人の趣味をごり押しするか多数派にウケやすいものが評価されるでしょう。弦楽器が好きで上質なものを売る楽器店を始めたいと申し出てくる人がいれば、「やめとけ」と業界関係者は口をそろえて言うでしょうね。まじめに弦楽器のことを勉強しても知られている知識がデタラメなのでまじめに先輩から勉強するほどお客さんを騙すことになります。

③職人は品質を見ます。品質というのは難しい概念ですが一つ一つの作業を上手くこなしているかを見ます。それぞれの工程で油断すると失敗してしまいやすい箇所というのは誰でも同じなので、失敗したまま見逃して売られているものは品質が悪いということです。ハンバーグを初心者が焼くと外が焦げて中が生焼けだったりするように失敗は決まっています。外観が変わっていても下手なだけでは他の下手な作者のものと雰囲気が似ているのでそれを個性とは私は考えません。しかし一般の人には分からないので偽造ラベルが貼られます。
ただし品質が高いからといって必ずしも音が良いというわけではありません。こんな情報も当ブログ以外で知る機会はそんなにないでしょうね。一見科学的なアプローチをする職人でも、結果としての音を自分の都合のいいように評価している人は理系的な趣味趣向があるというだけで科学とは正反対の態度です。


こうなると楽器をたくさん並べて3者のプロが良いと思う楽器を選ぶと全く別のものが選ばれることになるかもしれません。それぞれのプロ同士でも意見は分かれます。したがってこの世に絶対的な弦楽器の評価などというものは無いことになります。


これだけの話を理解すれば十分です。これ以上ブログを見る必要もありません。しかしどんな話をしても一つ話をすれば読んだ人は10、いや100通りの勘違いが生じます。そのすべてをあらかじめ予測して注意事項を書けば一つのことを説明するだけでその100倍の記事が必要になるでしょう。
私が知っていることも一部です。おとり捜査や潜入調査しているわけじゃないし、修理や保険の手続きなどに持ち込まれた楽器で被害が発覚するだけで、特にダーティーな部分はあり得るとしかわかりません。書いてあることで不十分だと思うなら私では期待にこたえることはできません。

いずれにしても一般の人は楽器を見ても違いが判りません。私は一瞬で安価なものだと分かるものでも、一般の人にはわかりません。私はこれくらいは分かるだろうと記事を書いてきましたが舐めてました。申し訳ありません。

とかく日本人はブランドが好きで・・商人気質の国民性のせいにしてきましたが、一般の人には違いが分からないのでそういうことになってしまうのではないかと思います。

趣味としても違いが分からないと面白くありません。私がオールドヴァイオリンを褒めれば偽造ラベルの貼られた近代やアンティーク塗装された新作の量産品を買ってしまう人が出てくるでしょう。
近代以降ストラドモデルのヴァイオリンを作ってもみなちょっとずつ違っていて作者の癖というのがあります。それは違いです。昔テレビで素人のど自慢大会のようなのがあって、審査員の偉い演歌の作曲家か何かの先生が「君の歌は誰かの真似で個性が無い」と酷評していました。作曲された演歌の曲こそ皆似ているように思いますが、そんな価値観を擦り込まれてきます。そんなレベルの話ではなく粗悪品が多い中、上級品の時点で私は価値があると思います。
しかし私には違いが分かっても他の職人や一般の人には違いが分からないこともあります。

今後どうするか考えないといけません。


ヴァイオリン①


これがどれくらいのグレードのものか分かるでしょうか?



これは20世紀前半のマルクノイキルヒェンの大量生産で特に安価なものです。中は削り残しのバスバーです。
裏板を見ると木材がチープなのはすぐにわかります。色に差をつけてありますが、中央の溝と上部の色を濃くしてあります。この時グラデーションが滑らかになっています。これはスプレーを使っているでしょう。スプレーは19世紀には発明されていて20世紀には実用として使われ始めたと思います。今はコンプレッサーの機械を使いますが昔はボンベを使っていたようです。
スプレーの技術は洗練されていてきれいに塗ってあります。しかしオールド楽器にはそんなものはありませんでしたから古い楽器のようには見えません。ニスの種類はラッカーになります。ラッカーはセルロイド系の素材です。

傷がついていますがわざとらしいものではないので本当についた傷ではないかと思います。真っ黒にはなっておらず100年くらい前のヴァイオリンの本当の傷はこれくらいの感じです。
値段は10万円以下のものは修理する値打ちも無いです。売り物になる古い量産品はこのような最低レベルでも10~20万円位にはなるでしょうかね?
これでも表板を開けるような修理が必要になったらもうゴミです。
音はすごく嫌な耳障りな音はしません。スケールが小さいはっきりした音のように感じます。

ヴァイオリン②


次はどれくらいでしょうか?



これはf字孔が印象的ですね。
一見するとガルネリモデルのように思うかもしれませんが、f字孔が細長くとがっている以外にはガルネリモデルの特徴はありません。
ラベルには作者名がヘルマン・グラスルで産地はミュンヘンと書いてあります。

一見してクオリティが高いのですぐに一人前の職人のハンドメイドのものだと分かります。作られた年は1919年です。

ミュンヘンというとオールドの時代から楽器職人がいて、ベネツィアに行ったマーティン・カイザーはベネチア派の礎を築きました。近代でもミッテンバルトの影響があったり、イタリアからジュゼッペ・フィオリーニが移住して来たりしています。
しかしこの作者の出身地がどこかわかります。

ペグボックスの突き当りが丸くなっているのです。これはどこでしょう?
そうですチェコのボヘミアです。

本で作者に調べてみるとどんぴしゃりでボヘミアの出身だと書いてありました。ハンブルクでゲオルグ・ヴィンターリングの下で修行したおじさんに教わっていて、そのほかにスイスやロンドン、ウィーンでも働いていています。そしてミュンヘンで独立したようです。
これだけいろいろな所に行ったのにボヘミアの特徴がちょっと残っているのが面白いですね。

ニスは赤く柔らかいオイルニスで典型的なこの時代のドイツのマイスターたちの特徴です。今でもオイルニスは柔らかいから音が良いとか、ラッカーは硬いから音が悪いという知識がありますが、この頃の考え方です。私は実際には必ずしも音がそうであるとは言えないと思います。ですので音を重視するなら気にすることはありませんが、高級品と量産品を見分けるポイントになります。


それにしてもf字孔に特徴がありますね。ガルネリ的なものですがもっとオーバーになっています。尖ったf字孔というのは初めに糸鋸で荒く切り抜いた時にすでに尖ったf字孔になっています。そこからナイフで丸みをつけていきます。ストラディバリ以降のf字孔に慣れているとアマティのような丸みまで削るのは怖くて生きた心地がしません。したがって尖ったf字孔になるのは仕事を早く切り上げているだけとも言えます。それがデルジェスの特徴です。同じ時期のザクセンの楽器にも大きく尖ったf字孔のものがありますがガルネリモデルではなく偶然の一致でしょう。
これは近代ですから当然ガルネリの影響があるでしょう。
赤いニスも20世紀の初めに好まれたものです。現在でも国際的なヴァイオリン製作コンクールを見るとこんな色のものが多いです。ボヘミアだとどちらかというと黄金色みたいなものが多い印象です。この時代のドイツのマイスターの楽器というのは20世紀から現在に至るまでの世界的な作風を先取りしていたということになります。

コーナーにははっきりした特徴があります。2004年に出版されたドイツのヴァイオリン製作者協会の本に代表的なモダンの作者の楽器が集められています。見るとコーナーは全く同じです。スクロール、ヘッド部分は全く同じです。f字孔は長いけどもここまで尖っていはいません。
まず本物と思って間違いないでしょう。

中にもサインがありますが、指板の下のところにサインをしてある楽器は初めて見ました。焼き印も横板のエンドピンのそばに押してあります。

この人もドイツのヴァイオリン製作者協会に所属していた人でモダンの作者を代表するマイスターです。にもかかわらず世界では知られておらずオークションなどの記録もありません。相場などは無く、値段は新作楽器よりも安いくらいでしょう。1万5000ユーロを超えるのは難しそうです。100年前のドイツを代表するマイスターでも世界では全く知られていません。何故かというと楽器商は誰も興味が無いからです。商業的に面白みがないと作者の評価さえもされないのです。一方同じ時代のイタリアの作者なら粗雑なマイナーな作者まで知られています。

個性的な楽器を高いクオリティで作ったにもかかわらず無名なままです。セールスマンがイタリアの作者を「個性があるから良い」というのならこれも個性があります。ウンチクというのは口で言ってるだけで実際とは関係がありません。実際にイタリア以外にも個性的な楽器があります。未知の名器を探求する情熱を持った人がいないんでしょうね?

アーチは縦横ともに断面が三角形に近く頂点はかなり高さがあります。

ミルクールの量産品のような極端に平らなものではなく立体感があります。ボヘミアの作者はフリーハンドの立体感があります。これは記憶が定かではありませんが、同じ作者のフラットなものも見たことがあるように思います。
このアーチの感じは同じミュンヘンのジュゼッペ・フィオリーニの感じにも似ているように思います。その辺の影響があったのでしょうか?フィオリーニや弟子のポッジなら値段が一桁違います。同じような楽器作りの考え方があって個性的でも大違いです。

100年以上経っている割にはきれいですね。柔らかいオイルニスは擦れても消しゴムのように薄くなっていきますし、ベトベトしていて汚れが付きやすいです。この楽器の状態からするとそれほど弾かれていません。

写真でうまく写らないくらい微妙な汚れがついています。掃除したときにf字孔の周辺に取りきれなくて残ります。本当に50年~100年くらい経った楽器はこのようにうっすらと汚れが付く程度です。この感じを人工的に再現するのはとても難しくうまくできているものは見たことがありません。わざとらしいものが多くこの手の汚れを見えている職人がいないんでしょうね。私も成功していません。このような残り方をするのはアーチの表面をきれいに仕上げてあるからです。これが粗雑な楽器だと凹凸に汚れが反映されもっと汚らしい残り方になります。まず一級のクオリティの仕上げの楽器を作らないとこういう汚れの残り方にならないのです。
また汚れの見え方はニスの色とも関係があります。暗い色のニスならほとんど見えません。鮮やかな赤でも目立ちにくいでしょう。しかしほんのりと汚れがあり全くの新品とは違います。

ちなみに板は厚めで、20世紀にはよくあるものです。現代的な板の厚さと考えて良いでしょう。

気になる音と楽器のランク

修理はネックの入れ直しと表板の割れが過去に直されています。今回は指板を交換しただけです。

個性的な楽器ですが音はどうでしょうか?
私が弾いた感じでは音は出やすくて新品のようなカチコチの感じではありません。同じような板の厚さの新品よりも落ちついた音に感じます。極端ではありませんが高音には鋭さを感じます。でも鳴り方自体は似ているように思いますから、現代の楽器が100年くらいするとこんな感じになるんだなと予想されます。
明るい音が良いなら新品が一番音が良いことになるでしょうね。それよりは少し落ち着いてスムーズに軽く音が出る感じがします。新品の板の厚いものを、硬い弓でゴリゴリ鳴らすのが身についている人には物足りないのかもしれませんが、私は100年経っているものの方が音が出やすいと思います。それで値段が新作楽器よりも安いのですから新作楽器に競争力がありません。

ともかく音は見た目とは違い意外と現代の楽器にはよくあるものです。個性が大事だと言ってもそれは表面的なことで現代的な楽器であることには違いがありません。そのためパッと見た瞬間に一人前の職人が作ったものだと分かります。こういう正面からの写真と違って肉眼で見る楽器は、f字孔やモデルのような具体的な形よりも、全体的な仕事のタッチの方が見た目の印象に強く影響するように思います。写真にするとかなり変わっていますけど同じ時代のマイスターのものに共通した雰囲気があります。
そういう意味ではそんなに個性的でもないし音もいたって普通でした。

それなのに個性が大事なのでしょうか?
個性とかそんなことは考えずに弾いてみて音が気に入るということで選んではどうでしょうか?職人は楽器のクオリティで値段をつけます。個性などは評価のしようがないため考慮できません。有名で高価な作者の個性は良い個性で、無名な作者の個性が悪い個性というのなら高い楽器の個性が良い個性で安い楽器の個性が悪い個性と言っているだけです。そんな理屈は論理性がありません。ある程度の理解力のある人ならおよそ納得できないでしょう。
私が言うことはセールスマンが言う事とは全く違います。チャンスを逃したくなければ変なことは信じなくて良いと思います。

個性や自由などは19世紀の近代芸術ででてきた思想でもあります。その時代では主流の考え方でしょう。しかし普遍的なものではありません。オールドやモダンの名器が作られた時代の思想ではありません。保守的な芸術に反抗する運動が起きましたが、19世紀の弦楽器の業界はストラディバリを最高とするまさに保守的な世界の代表で個性的なものが評価されることはありませんでした。20世紀には厳格なストラディバリモデルが守られなくなり、素人の職人でも「これが俺の作風だ!」と言い張ることができるようになりました。
音楽でも20世紀には作曲家の間では現代音楽が主流です。皮肉にも20世紀以降の作品は方向性が皆似ているように聞こえます。これが嫌いな人はクラシック界を去っていくことでしょう。演奏会を開いてもお客さんは集まらず、作曲家は映画音楽に仕事の場を得ています。ショスタコーヴィッチやストラビンスキー、レスピーギでも古典を模した曲ばかりが演奏されます。音楽がどうあるべきかは皆さん一人一人が考えることです。それと同じように弦楽器もどうであるかは個人個人が考えることでしょう。

真に個性的な音の楽器を作るにはどうすれば良いでしょうかね?それが問題です。現代的な楽器ではないものを作らないといけません。

今回は同じ時代のドイツの楽器の上と下を紹介しましたが、その間があります。その微妙なグレードの違いを見分けるのが大事です。間違っても現実の楽器では天才とかそんなレベルの話ではありません。

作者にはそれぞれ癖があります。ストラディバリモデルで作っても癖がありますそれが違いで、わずかな人にはわかります。音にもそれぞれ癖があります。工業製品の技術革新のようなものではありません。寸法を変えて自在に音の好みを作ることもできないので国ごとに美意識による音の違いがあったとしても作ることができません。音の好みは人それぞれで音の個性も客観的には評価のしようがありません。