音だけでチェロを選んだその結果 | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

こんにちはガリッポです。

前回の話の続きです。
値段と音が関係ないとか、安い量産品でも音が良いとか言ってきましたが、そうはいっても心底信じてもらえていないかもしれません。実際の例を上げれれば実感が沸くことでしょう。
https://ameblo.jp/idealtone/entry-12752594643.html


若い演奏家が音が良いという理由で2万ユーロ(約260万円)で買ったチェロの話をしています。職人が見ると製造にかけたコストで考え最も安上がりなザクセンの量産品でせいぜい50万円くらいだろうとなります。保険をかけるために査定をお願いされました。
評価額には幅があり、保険の場合には掛け金が低すぎると十分な補償を受けられない恐れがあるので高めに設定します。数年後の物価や楽器の価値の上昇も考えると上限いっぱいにしておくと良いでしょう。それでも評価額の見直しが必要で、5年もしたら考えた方が良いと思います。

持ち主からは2万5000ユーロ(約325万円)で保険をかけたいと連絡がありました。
しかし楽器の価値はそんなにありませんから断りました。本人は2万5000ユーロのものを2万ユーロで安く買えたと思っているようです。無慈悲に査定すれば4000ユーロが良い所でしょう。高めにしても8000ユーロ以上は無理です。2万5000ユーロに査定すれば、もし保険会社に怪しまれて他の職人が査定をしなおしてバレてしまうと信用を失ってしまいます。保険の申し込みを請け負っただけの顧客にそれだけのリスクを負う必要はありません。

話を聞くと、専門店で買ったのではなく、音楽家から個人売買で購入したそうです。普通個人売買なら専門店よりも安い値段で買うものです。普通なら2万5000ユーロするものを個人売買で2万ユーロで買えたので得したと思っているようです。

音楽家同士で売買した結果、全く市価とはかけ離れた値段で取引されました。これが音楽家の考える楽器の価値です。

プロの演奏家であれば楽器の良し悪しは一番わかっているとうぬぼれているかもしれません。確かに実用品としての楽器の価値は分かるかもしれません。しかし値段はそれとは違う理由でつきます。値段がどういう方法で決まるか全く知らない者同士が取引した結果です。個人売買ですから両者が納得したのなら成立です。

特に厄介なのは、格上の演奏者、先生や教授など地位の高い人が関わってくることです。先生が「このチェロは音が良いのでぜひ使いなさい」と薦められると本当に音で選んだのかさえもわからなくなります。本心からそうしているのか、わかっていてガラクタを高く売っているのか、高所得で何千万円もするチェロを持っていて金銭価格がマヒしているのかわかりません。

また古物の場合には自分の所有物を非常に高く評価する人がいます。日本の長寿番組で『開運!なんでも鑑定団』ってありますよね。お父さんが家族に骨董品を自慢して大恥をかくというパターンになっています。でもそうやって高価なものだと信じ込んでしまう人が多いということです。悪意は無くても結果として騙したことになります。


本人が来てそのチェロを演奏して聞かせてくれました。
聞いた感想は誰もが驚くようなすごい音ではなく、やや鋭く、力強い音と耳障りな音の紙一重の音です。音楽家が好むタイプの音です。
工房でも部屋に音が広がることはなく楽器だけで鳴っている感じがしますし、音色も微妙に感じました。300万円くらいする楽器を買うのならホールなどを借りて仲間と弾きあったりそれくらいの費用はかけても損はないでしょう。

つまり「その人が気に入った」というだけです。
それもチェロの後ろ側に座って特定の曲を弾いた時に感じる音だけです。

一人でも気に入る人がいれば「音が良い」ということになります。
たくさんの楽器を試奏して音楽家が音が良いと選んだものは50万円くらいのものでした。それを260万円で買ったのです。

これが値段と音の現実です。
技術者には全く理解できない音楽家特有の行動でしょう。


ものを買うなら事前に多少は知らないといけません。
『楽器を購入するにあたって』という情報が必要ですね。
ネットなどはどの分野でも素人の思い込みの激しい異常なマニアが喜んで情報を披露し、良識のある人は己の無知を恥じて語らないでしょうね。
楽器店が広めてきた「正しい知識」もでたらめですから困ったものです。


当ブログではそんな話をしてきています。
いかに優れた演奏者でも量産品と高級品の見分けもつきません。この見分けがつかないと楽器の値段は見当もつかないことになります。

上級者でも量産品とは気づかずに「この楽器は音が良い」と絶賛することがあります。このように値段と音は全くかけ離れていることがあります。我々も客商売なので上級者になればなるほど強いことが言えなくなります。その人が楽器のことを全く分かっていなくても、説教することができないのです。また音楽家として活躍する人にはステージに立って自分を表現する独特の強さがあります。プライドが高くトンチンカンな勘違いをしている人が少なくないのです。したがって音楽家として偉い人、才能がある人ほど楽器のことは分かっていないくらいに考えた方が良いです。偉い先生が自慢の名器を見せてくれた時、私にはそれが安物だと分かることもあります。でも言えないですよ。


作者が天才だとかそのような話ではなく量産品か高級品かの見分けのレベルでも一般の演奏者には無理なのです。そして量産品でも音が良いと感じることがあります。私がブラインドで聴いていたらはっきり言って音で値段を言い当てることはできません。量産品か高価な名器なのかも自信ありません。

でも楽器を見れば一目見ただけで量産品なのか、モダンやオールドの名器なのかわかります。

音はそんなものだと思ってください。