教会での古楽の演奏会 | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

こんにちはガリッポです。
仕事一筋で20年やってきましたが、去年はコロナの流行が始まって体調管理のため仕事はセーブして自宅で待機する時間がも多くなりました。そこでひさびさに音楽鑑賞を趣味として復活させました。
今年はワクチン接種も進んで演奏会も許されるようになりました。
こんな時世に行われた演奏会に行ってきました。今回はそんな話題です。

まずは腹ごしらえから。本格的な石焼窯のピッツァです。普通のブログやSNSみたいな写真です。普通のブログならこれでおいしかったと書けば記事は終わりです。
私が日本にいた20年前は本格的なピザは日本では珍しかったです。東京に住んでいたころは住まいの近くでイタリア人がピザ屋を始めて驚いたものです。

店はかなり古い建築物でしょう。天井がアーチになっています。洒落ています。

若いお客さんが多いせいかディスコのような音楽が大音量でちょっと興ざめです。
これが現代のヨーロッパです。

今回演奏されるのはこの建物です。これはプロテスタントの教会で向かい側のカフェバーが屋外の座席を設けています。カフェと教会の妙な組み合わせです。
コロナの影響もあって外の座席に座る人が多いです。

正面にトラックが停まって残念ですが街の中の教会です。

中は座席が木製でバルコニーの席もあります。

演奏は古楽の楽団でヴェントゥリーニ、ヴァレンティーニ、J.S.バッハなどの器楽曲が演奏されました。演奏は短めで1時間ほどで終わりました。おそらくコロナのために時間を制限したのでしょう。

バッハはクラシックファンにはおなじみですが、他の作曲家の曲はもっとバロックらしい感じがしました。古い教会に古楽器の演奏でタイムトリップをしたようです。音楽の世界に引き込まれて時代をワープしたようでした。

演奏会後は夜になって冷え込んできたので向かいのカフェバーに入って感想を言い合ったりしましたが、また店にかかっていた音楽で現代に戻ってきたような気がしました。

教会で演奏された古楽器の音はとても柔らかく暖かい物でした。金属的な鋭さは感じません。90%が演奏者という理論を言ったばかりですが、弾く場所も重要であることを再認識しました。
なかなかこのような建物は日本には少ないでしょう。宗教施設という意味では、お寺で演奏するようなものですが、お寺は響きが違い過ぎます。音響工学によって設計した現代のホールとも全く違うでしょう。基本的に教会は来る人は拒まないので入るのに遠慮はいりません。

お客さんはやはり年配の方が多く、マニアックな曲目にもかかわらず、油断していたら発売後すぐにチケットが完売寸前になっていて慌てて購入したほどで、熱心なファンがいるようです。
20代以下の人はほとんどいないようでした。
今回はコロナ対策のためかチケットはペアでのみの販売となっていました。マニアックなバロック音楽のファンが二人そろうのはなかなかのことです。
ベテランの音楽ファンならこういう音楽に行き着いているのかもしれません。
年老いてからも楽しみがあるのは良いですね。若い時にクラシック音楽に親しんでおけば一生楽しめますね。

マイクも写っていますが、今回の演奏はラジオでも放送されるようです。もちろん演奏にはマイクは通しません。あいさつや冗談をちょっと喋ったりしていましたがマイクなどは無しです。教会では昔からそんな感じだったのかもしれません。

後で話をしていたのはバッハはクラシック音楽のルーツというようなものでしょう。他の作曲家は失われた芸術という感じがしました。
私は音楽を言語に例えます。音楽はジャンルごとに独特の醍醐味があってまるで言語のように親しんでいると「わかる」という感覚が得られます。それで言うとバッハは「クラシック」の言語の音楽かなと思いました。他のバロックの作曲家は別の独特の言語のようです。バロック音楽の言語です。私の造語なのか知りませんが「音楽言語」としておきましょう。

昔言われていたのはバッハはバロック時代を代表する作曲家でバッハさえ聞けば他は取るに足らないので無視して良いとそれくらいの感じでした。しかしそれは自分の知らない音楽言語を理解しようという態度ではありません。このようなことを音楽通が言っていたのですから、ひどい物でした。今でもそのような権威主義の人はクラシック界には多いでしょう。イタリアからイギリスまで共通する「バロック音楽語」があったようです。そもそもバロック芸術はカトリック教会の政策が発端ですから当然ローマが中心地なわけです。それがヨーロッパ全土に広まったのでどこの国のものでも似たようなものです。しかし方言のような地域性もあることでしょう。

素晴らしい体験ができたので、またこのような演奏会が無いかと探していると来年の夏のモンテベルディの演奏会のチケットが完売しているのですから驚いたものです。分かっている人もたくさんいるようです。


音楽も歴史があります。歴史というのは常にそれを書いている人たちを正当化するように作られるものです。徐々に進歩して現在が頂点だと仕立て上げるわけです。それに不都合なものは削除されます。人間とはそんなものです。
バッハを「音楽の父」なんて教わった人も多いでしょう。その言い方はとても視野が狭いと気づいていないとおかしいです。それより前にも音楽があったからです。また音楽はクラシックだけではありません。それだけ19世紀ころにはクラシック音楽界は自分たちの音楽が唯一絶対のものだと信じていたのでしょう。

そんなわけで忘れられた音楽がたくさんあるわけです。

また現代では著作権という概念もあります。しかし音楽が言語であるならファンのみんなが理解していないと言語として通じません。したがって同じジャンルの音楽なら似ているのは当たり前です。メロディを主体とした音楽なら著作権も成り立ちますが、メロディがはっきりしない音楽やアドリブで演奏されるものでは著作権も何もありません。これもまた文化を狭めているように思います。
「オリジナリティが重要だ」と言うと理屈では聞こえが良いですが、誰も聞いたことが無いような音楽を作っても人気は出ないでしょう。
オリジナルという言葉も全く違う意味が混同されていて、古典をできるだけ忠実に再現することも「オリジナル(原典)な演奏」になります。


私はヴァイオリン製作でも同じことを考えています。
近代や現代の楽器を見ていると忘れられたことがたくさんあるようです。イタリアのモダン楽器を見ていてもアマティのころのものは忘れられています。1900年前後には独特の流行があっていかにもイタリアのモダン楽器という感じがします。例外的にナポリの楽器にはオールドの雰囲気が残っているものがあるということもブログでは紹介しました。むしろそれは珍しいのです。
近代~現代の偉い職人たちが自分たちを正当化するための歴史を作って来たので、歴史から多くのことが抹消されています。現代において「正しい知識」を学ぶと偏った視点になってしまうのです。

文化人類学では歴史や文化に優劣を求めず、単にそういうものだと受け入れるのが大事だと本で読んだことがあります。弦楽器の世界でそのような視点を持っている人は本当に少ないです。だから本当の古い楽器を見てもそこから何も得られないのです。

失われたオールドヴァイオリンの製法を探求するのもとても面白いです。なかなか難しいです。それだけでなく今ではモダン楽器すら忘れられています。

必ずしも性能が優れているということではありません。
探求すること自体が楽しいです。わくわくするタイムトリップです。
たくさんの楽器を弾き比べてどれが優れているかというのとは違う価値を出していきたいと思っています。