「大体こんな感じ」とつかめむこと | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

こんにちは、ガリッポです。

風邪が大流行して私も多少影響を受けています。静養のため軽めの内容にします。


前回の話では平らなアーチ、薄い板厚で100年も経ってれば誰が作ったにかかわらず鳴って当たり前ということでした。たとえばハンガリーのヴァイオリンなどは安くて条件を備えています。東欧出身のプロのオーケストラ奏者などはそれで十分に仕事をこなしています。新作楽器で対抗するのは難しいです。
それに対してグラデーション理論やサッコーニのシステムによって板の厚さ増してきたのが20世紀の職人で根拠なく「改良した」と思い込んできました。
私の職場の先輩が10年以上前この両方の要素を取り入れた「理論」でビオラを作りました。
グラデーションでは表板の中央部分、表板と裏板の中間部分が厚くなり、サッコーニのシステムでは周辺部分が厚くなります。この結果板は厚くなり、低音が出にくい明るい音になりました。ニスも明るい黄色でビオラとしては全く好まれないもので10数年たった今でも売れ残っています。

グラーデションとサッコーニの両方の理論を取り入れたのですから、理屈を言葉で説明されれば説得力のあるものです。しかし実際に音を出してみると全く魅力的ではないものになってしまいました。


楽器製作で学ぶべき対象は理屈ではなく結果なのです。ここではグラーデーション理論やサッコーニのシステムではなく、高価ではないハンガリーのヴァイオリンだったのです。
ハンガリーの作者で高い値段が付くのはごく一部で大半は楽器商の興味をそそるものではありません。彼らの興味とは言うまでもありません、お金のことです。値段が高い作者ばかりに詳しくても学ぶことができません。

弦楽器の製作というのはこれが最高というものはなく「大体これくらい」という範囲に入れることが重要ですが、それ以上はやりようがありません。大体の範囲に入っていれば音は好き好きの問題で古さや弾きこみによってさらに有利になってきます。

「大体これくらい」というのはたくさんの楽器を調べてこないとわからないものです。自分の流派を根拠もなく世界一だと信じていれば学ぶことは無いでしょう。


現代の職人が工夫して「画期的に音が良い作り方を考案した」と言うようなことは100年前の名前も残っていないような職人でも思いついたことですでにやっていたことです。今となって100年くらい前の楽器を見るとき、「余計なことをしてある楽器」は残念に思います。普通に作ってあれば十分に鳴るようになっているからです。

私なら余計なことをしていないで大体これくらいだろうという楽器があると「これは良さそうだ」という印象を受けます。特に作者が有名でなければ100万円もしないかもしれませんが、「これは良さそう」というのが分かるようになってきます。100%正解するわけでもなく結果は音を出してみないとわかりませんが、買取の場合にはまともに音が出せる状態にないことも多く非常に重要な判断になります。
多くはただの手抜きで作られた粗悪品でその中にわずかにまともな楽器があるのです。それで十分で50年以上経っていればどんな有名な作者の新作楽器以上の音の可能性は十分あります。最終的には弾く人の好みで、お店ととしては異なるタイプを集める必要がありますので基本的なレベルさえクリアーしていれば音の性格がどちらに転んでも好きな人がいるというわけです。




これはマルクノイキルヒェンで1910年代に作られたヴァイオリンです。一見してフランス的なところがあります。
現代のヴァイオリン職人が知っていることはすべて知っています。現代の職人でもヴァイオリン作りをまじめに勉強すればこのようなものを作ります。違うのは100年経っているという点です。作りは現代のものと同じなのに100年も経っているのですから現代の楽器が圧倒的に不利です。マルクノイキルヒェンと言うと安価な量産品が大量につくっれた産地ではあります。それはたくさん売れるからであってまず基本としてのマイスターのヴァイオリンがあってそれのコストを下げたものが大量生産品なのです。
このヴァイオリンなら現代の職人の中に入っても十分通用するレベルです。
アンティーク塗装は私のレベルではありませんが、現代の職人でも多くはこのような感じです。ニス自体も量産品のラッカーとは差別化されています。裏板の着色などは今ではノウハウが失われています。
さらに同様のビオラを今修理中でこちらはさらに魅力的です。出来たら紹介します。

このヴァイオリンを調べてもどこも悪いところはなく、現代の名工とされている人と同じように注意深く作られ、弾いてみたらよく鳴るかもしれません。値段は半分以下です。

デルジェズのコピー

特注でデルジェズのコピーを作ることになりました。作業は始まっています。

裏板には会社で94年に購入した板目板を使います。その時点でも古材として買っているはずです。厚みがあまりないので高いアーチは作れません。私の様な作風は当時は考えられていなかったのです。私がいかに常識はずれな変わっていることをしているかです。
板目板をチョイスした理由はピエトロ・グァルネリのコピーでもアマティ型のビオラでも特別低音が豊かなものになったからです。依頼主の希望です。板のせいなのかどうなのかはまだわかりませんが、今回もデータが得られると思います。

表板も古いストックのもので珍しく割ってあるものでした。ふつう材料はのこぎりで切ってありますが、暖炉の薪のように割ってあるものです。割ってあるメリットは繊維の向きがまっすぐになることです。よく太陽光に充てると左右表板の色が違って見える楽器があります。これは繊維の向きが右と左で違うからです。だからと言って音が悪いといことはありませんが、割ってあるものは仕事はやりやすく材料としてはぜいたくなものです。


手作り感

フランス、ドイツ、ハンガリーのなど楽器では量産品と共通の基礎があるため見た目の雰囲気には影響があります。量産品と高級品の差を出すために「クオリティの差」を設けてありました。フランスの楽器なら同じ作者の名前がついていても本人が作ったものと経営する工場で作った量産品がありますが、私がそれを見誤ることはありません。クオリティに差があるからです。

それに対してイタリアでは工業を組織することができなかったのでその必要がありません。見よう見まねで素人が作ったような素朴な楽器も、へたくそな職人に手抜きで作られたような楽器も「ハンドメイド」として高値で取引されます。昔インタビューでモラッシィが「ヴァイオリンは手作りでなければいけません・・」と言っていたのを覚えています。「自分の楽器は量産品とは違う」と考えていたようです。自分の楽器をあらゆる楽器の中で優れたものと考えていたのではなく量産品より価値の高いものと考えていたのなら他の職人が考えているのと同じことです。職人としてその意見には賛成ですし、年齢を重ねた職人がたどり着いた境地と言えるでしょう。職人でない人たちが勝手に誤解しているだけです。

とはいえ単なる機能性ではハンドメイドに優位性があるかは疑問があります。
そうなると「手作りの味」みたいなものです。
もはや趣味のレベルで人それぞれの価値観にゆだねることになります。

ジュゼッペ・フィオリーニという人は現代のイタリアの楽器製作に大きな影響を与えた人です。前回も話した通り、父の代からイタリアの楽器製作の近代化、つまりフランス化に貢献しました。それだけでなく独自のスタイルも築いたと言えます。ストラディバリを整えて直して理想的な形にするというのはフランスで行われてきた考え方で今でも、ヴァイオリン製作コンクールで上位に入るような人たちには基本の考え方です。フランスの考え方が今でも基礎として残っているのです。そのような特徴はフィオリーニの楽器にも見られます。

しかしフランスやドイツの高級品とは違い「手作り感」を出すようにしている部分があります。特にアーチに現れています。現代では機械を使ってアーチはほとんど加工することができます。ヤマハはグァルネリ・デルジェズの3次元データをもとに加工してるというのをアピールしてヴァイオリン事業に参入していました。実際に古い楽器にはひどく変形していてそのまま寸分違わずということはできません。機械で作られたものを仕上げるチューンナップをよくやっている私は機械のアーチがどんなものかはよくわかっています。
古い時代であればそのようなものもなく手作業が主でした。
したがってノミで彫っていくわけですが、粗削りなのでそれほど重要なこととは考えられてこなかったかもしれません。

それに対してフィオリーニはノミで削る段階にこそ職人のセンスや熟練度が現れると考えたのでしょう。このようにして見てみると手作り感があります。それだけでなくノミを使うことで生まれる独特なカーブがあり、機械とは違うことが分かります。
フランスやドイツの方法では仕上げを完璧にすることで高級感を出していたのに対して、ダイナミックな造形を表現しようとしたのです。仕上げを完璧にするためにカンナを多用するほどアーチのキャラクターや表情がどんどんなくなっていきます。わずかな凹凸も残さないことに注意が集中していたらダイナミックな造形はできなくなります。近代のドイツのマイスターの楽器や現代の製作コンクールの作品などではそのようなものが見受けられます。裏板の材料は割れやすいのでできるだけカンナの削りくずは薄くする必要があります。これがちまちました作風につながっていきます。
アーチを写真にとると全く見えませんがこのような荒削りの段階なら動きが感じられるのです。これをできるだけ損なわないようにしようというのです。

このようにフィオリーニのアーチを見ればダイナミックな躍動感が伝わってきます。同様のものは近代の他のイタリアの楽器でも見たことがあります。イタリアの楽器であることを見分けるポイントとなるでしょう。そうなっていないものも多いのですが、アルプス以北のものにはまずありません。フィオリーニは晩年をドイツのミュンヘンで過ごしていましたのですがミッテンバルトのような産地へは影響がありません。


私は10年以上前にこのような試みを始めました。当初はよくわかっていなくて中途半端なものができていました。

オールド楽器とは違う

私もこのような作り方に取り組み、知り合いの職人とも意気投合してお互いに作ったものです。当時彼が作ったものは、最近一緒に仕事するようになったイタリア人のものとよく似ています。どちらもフィオリーニのようなダイナミックな動きがあります。アーチのスタイルも似ています。しかし私が思うに「ノミの動きをコントロールしきれていない」という感じがします。ノミに持っていかれているのです。

オールド楽器はこのようなダイナミックさとは違うように思います。

小型のアマティ型やシュタイナー型の楽器ではもっと狭い範囲でアーチが作られていて深い溝や急斜面のようになっていたりします。カンナで凹凸なく仕上げるというのが違うのはもちろんですが、ノミの勢いで作るというのも違うと思います。


初めの荒削りのままで完成までもっていけばフィオリーニのようなダイナミックなアーチになったでしょう。しかし私はもうちょっとアマティ的な感じにしたいのです。デルジェズのコピーとはいえやはりアマティの流派ですからそのあたりを忍ばせたいのです。

前の写真より繊細な感じが出てきたと思います。説明するのが難しいですが、周辺の溝に縛られることで不自由になっていてダイナミックな動きが制限されています。


このようなアーチを作る作業では「大体こんな感じ」という感覚がとても重要になってきます。何か規則性や手順があるのではなく作業を続けていくうちに気が付くとできているというものです。これ以上やったら削りすぎですから作業はやめなくてはいけません。
行きすぎたり、攻め切れなかったりする楽器はよくあります。攻め切れていなくても仕上げを丁寧にやればなんとなくできているように見えます。しかし私には造形センスがないように見えます。行きすぎていると柔らかなふくらみが出ません。

そのためこの作業をしている間はあまり頭で考えてはいません。
エッジの周辺は私は異常にこだわりがあるのでちょっと考えますが、行き過ぎないように注意するだけです。これが勢いに任せていると行き過ぎてしまうのです。

このようなこだわりも音への影響はさっぱりわからない

昔の人も音のために製法を考え出したのではなくて何かしら当時としては合理的な作業手順があったはずです。現代と違ってふくらみのあるものを作ることが前提でそれに合ったものだったでしょう。
なぜかはわかりませんが、弦楽器というのはぷっくりと膨らんだものだと思われていたのです。

今では平らなアーチを作るための方法が洗練されてきたと言えます。現代の製法では高いアーチの楽器を作るのは向いていません。ストラディバリやデルジェズはその過渡期にあり高いアーチの楽器の作り方を教わったはずです。たとえ低めのアーチでも共通の作り方を応用したと考えられます。うまくアンティーク塗装がなされていても「これは近代の楽器だ」とすぐにわかるのはアーチが近代的だからです。

しかし音への影響は分かりません。
アーチのタイプを分類して音の傾向を言うのはとても難しいです。
特に現代のように皆同じようなタイプのアーチの中でとなると違いを明らかにしたり分類したりすることすらできません。

結果論としてこのように作る私の楽器の音には特徴があります。
荒っぽい音とは無縁です。繊細で柔らかい音がします。なぜかはわかりません。


弦楽器の作風は一つのパッケージなのだと最近は思います。
寸法をパラメーターの数値として入れ変えることによって自在に音を作り出すということはできないということが分かってきました。


荒々しい音の楽器が好みならそのようなものはたくさんあります。特別高価なものを選ぶ必要はありません。特に作られて100年くらい経った楽器に多くあります。そのことから一般的な方法で作られた楽器が100年くらいするとそのような音になるということです。
新作の段階でそのような音がするのならさらにその傾向は強まるでしょう。耳障りで何とかしてくれと言ってくる人がいます。新作なら柔らかすぎるくらいで良いでしょう。店頭では地味で目立たない楽器になります。


どんな楽器を弾いても弱い音しか出ない人は硬い鋭い音の楽器を弾くと強く感じます。なのでそのような楽器がよく売れます。
どんな楽器でも力強い音を出せる人は柔らかい楽器のほうが限界がもう一つ先にあると思います。技量は無くても耳当たりの良い音の楽器を楽しみたいという人にも向いています。

結果的に出てくる音では、使う人に合っていることが重要で楽器自体で音の良し悪しというものは無いのです。

大体こんな感じ

弦楽器を作るときも見るときも「大体こんな感じ」というのが重要です。具体性がないので初心者には難しいです。何か理屈や数字があるほうが分かりやすいです。値段やうんちくに頼ると無駄にお金を払って悪い楽器で音楽家としての時間を浪費することがあります。

今回日本で私の作ったヴァイオリンを使うことになった方はいずれも女性でした。
女性向けに作ったわけではありませんし、ブログの感じから言っても男性の読者が多いかと思っていましたが結果はこうです。

いわゆる理系タイプの男性はマニアックではあるのですが、視点が偏っているように思います。自分の頭の中にあることばかりに意識が集中し見落としているところがあるのに気づいていません。頭で考えることはやめて感受性を高めてもらいたいものです。音も「聞く」と「聞こえる」では違って聞こえます。聞くという場合は自分が意識している音だけを取捨選択して聞いています。

私は基本的に理屈っぽい人だと思います。しかしそれは偏見や思い込みをなくすために使用するものです。浅い知識なら無いほうがましです。