バロック・ヴァイオリンとチェロの話 | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

今回はバロック楽器の話題です。




こんにちは、ガリッポです。

今はこんなヴァイオリンの修理をしています。

これはカルカッシ家のラベルがついてるオールドヴァイオリンです。
見るとすぐにそれがオールドヴァイオリンで現代のものとは違うことが一目瞭然です。近代以降作られなくなったタイプのものです。裏板の内側のカーブを見るとこんなのは現代では無いです。楽器製作を学ぶと「正しい作り方」を知った気になります。しかしオールド楽器はそれとは全く違うのです。

にもかかわらず現代の楽器職人はそんなことにも気づかずにこのような楽器を修理しても自分の楽器製作とは関係なく通り過ぎています。現代という時代を生きているからです。

今ではこんなのを作る人がいません。私は作ってみたらどんな音がするのか気になります。実際に去年作りました。

カルカッシが本物なのかニセモノなのかはいつものように分かりません。
私には判別できません。
しかしこの楽器が美しいものであること、音響的な構造も文句ないものである事は私にはわかります。本物であるかニセモノであるかには私は興味がありません。この楽器が素晴らしいものであると名前を聞かなくても分かるからです。

カルカッシはイタリア・フィレンツェの職人です。
フィレンツェにはメディチ家があって楽器のコレクションをしていました。アマティもストラディバリも当然ありました。それらの楽器は今でも状態よく保存されていて大型のビオラでは演奏に使われることもなかったので新品の状態をとどめた貴重なものです。市場に出回ることがなく値段が付かないほどのものです。

ところがガブリエリやカルカッシといったフィレンツェの職人はアマティやストラディバリを見てもそれを真似せずにシュタイナーをまねて楽器を作りました。つまり当時はシュタイナーのほうが評価が高く最高の楽器だと考えられていたということです。

「作者の評価」なんていうものは時代が変われば変わるものです。不変のものではありません。
それに対して物自体は評価が変わっても同じものです。評価などというものは泡のようなものです。私はそのようなものには興味がありません。

泡を絶対視している人が多くいて困ります。


多くの人がそれを良いものだと考えているということになりますが、才能がある人だけが参加できるのであればまだしもそうでない人もたくさん混じっています。だから私はまともに相手にしません。有価証券の価値みたいなものです。


かつての修理では傷んだエッジやコーナーはやすりを使って丸くしました。
自然に傷んだり摩耗したりしてこのようにはならないでしょう。

1900年ごろのミラノの流派でもエッジを丸くして楽器を作ることが流行し、チェコのボヘミアに伝わったという話をしました。今なら傷などはそのままに、ひどく傷んでいるところに新しい木を付けて直します。

このように時代が変われば常識はどんどん変わっていきます。
当時このようなタイプの楽器は花形だったのが今ではモダン楽器の評価が高くなっています。

今ではあまり注目されないタイプの楽器です。
分かる人がいなくなっただけの話です。

バロックについて


パーツメーカーがバロックヴァイオリンのテールピースを製造するのに協力しています。
私がデザインしたバロックテールピースが量産されるはずです。
試作品をメーカーが持ってきました。

ダメだこりゃです。
パッと見てもおかしいということは無いようなのですが、モダンのテールピースの製造法を応用しているのでおかしいところがあります。コンピュータのプログラムにして機械で加工するのです。
分かる人がどれだけいるか知りませんがせっかく量産するならちゃんとしたバロックらしいものにしてほしいです。

このようなメーカーの人はコンピュータや機械を操作する専門家であって弦楽器の専門家じゃないのです。

詳しくは割愛しますが意味が分かっていません。図を描いて説明しているところです。


バロック用はありませんが私が知る限り最も品質の良いパーツメーカーはドイツのハラルド・ローレンツというところですが、値段が数年前に比べてガクッと上がりました。問題は値段ではなく納期です。商社に聞いても何年先に納品されるかわからないということです。

この会社は高品質な製品を作っているために人気が出て入手が難しくなりプレミアで値段も上がっているというものです。本当の意味で高級ブランドになっています。ビジネスとしては完全に正しいです。私もよく使っていましたがこれからは入手が無理かもしれません。


日本で商品がヒットして品切れになると「申し訳ございません」と謝ります。消費者は怒るからです。増産体制を整えるといずれ人気も下火になって生産過剰になるわけです。

私は消費者に怒られるような悪いことはしていないと思います。
特に品質の良いものを作ろうとするとたくさんは作れません。人を新しく雇えば教育訓練が必要ですが、才能や適性が必要な高度なものなら訓練したからと言ってできるものではありません。人員を増員し生産を増やして品質が落ちるのはいつものことです。品質が落ちることで売り上げが落ち利益を確保するのにコスト削減でさらに品質を落とすのです。工場は安い国に移転です。

ローレンツの場合には派手なプロモーションもなくホームページも更新されていない感じのものです。営業努力なんて一切していないでしょう。それなのに高級ブランドになっています。一般的な高級ブランドと違って派手な宣伝はありません。全く現代のビジネスのセオリーとは違うのにそうやって成功する例があるのです。「意識高い系」のコンサルタントの人たちにはそういう古い産業があることを知ってもらいたいですね。


このような状況は品質の良いものが不足しているというわけですから需要がはっきりしています。他のメーカーが同等の製品を作れば売れるチャンスがあるというわけです。チャンスが転がっていますよ。供給できないローレンツが悪いのではなくて品質で対抗できない他社が悪いのです。


バロックテールピースですが、昔は職人が自分で作っていたはずです。こうでなくてはいけないという決まりは無く弦が止まればそれでいいというものでした。これが本当のバロックテールピースというのは無いです。「バロック」というのもそういうもので「これが正しい」というのはありません。地域や時代、個人によって違うものです。何か意味が合ってそうしていたとは限らず、なんとなく慣習でそうしていたものが近代以降突き詰められてやり方が確立したということはあります。

しいて言うなら「近代以降のやり方をまだ知らない」というのが正しいバロックと言えるでしょう。モダンのテールピースを応用してバロックテールピースを作ると「本物じゃない」と言えます。でも本物が何なのかは決まっていません。


バロックについて

私が古いものが好きということはこれまでも隠しきれていないと思いますが私が一番好きな音楽はバロック音楽です。自分の趣味だけで語ればモダンよりもバロック楽器が好きだということになります。

だから名門オーケストラの音楽監督が誰だとかスター演奏家のことなど最新のクラシック音楽事情には全く疎いです。


自分の趣味の世界に没頭していると職業人としてはダメですからもっと幅を広げるようにしなくてはいけません。ただ基本的な考え方として「進歩史観」は持っていません。時代が最近になるにつれて何もかもが良くなっているとは考えていません。失われたものの中に良いものがあったんじゃないかと常に目を光らせています。


生物の進化でもNHKスペシャルで10年に一回くらい人間を最終形態とする生物史のドキュメンタリーがありますね。人間だけでなく昆虫も軟体動物も爬虫類も今に至っているとすればそれはそれで良くできていると思うのです。昆虫ですらないような「虫」がどうであるかなんて公共放送ではマニアックすぎるのでしょう。中学の時に生物の進化を教わるわけですがどう進化したか教科書に出てこないような生物について授業中に先生に質問してしまい失敗したことがあります。優等生であるためには空気を読んで塾で先に学んだ「正しい質問」をしなくてはいけません。好奇心を捨てることが勉強なのでしょうか?


自然界は弱肉強食で選ばれていくわけですが文化にもそういうところがあります。

強ければ生き残るのかもしれません。
何を残していくか選択によって素晴らしいものも失われていきます。


バロック芸術というのはカトリック教会のプロパガンダの手法です。
プロテスタントに対抗するために16世紀中ごろに開かれたトレント公会議に教会の偉い人たちが集まって芸術がどうあるべきか話し合い決定されました。その決定に従って作られたのがバロック芸術とのちに言われるものの起源です。

悪いことだと言っているのかというとそうではなくて芸術家はそのような仕事を与えられた中で情熱を注いで素晴らしい仕事をしたのです。今の作曲家とどちらが活躍の場に恵まれているでしょうか?

日本人にとって今の社会を賛美する歴史観ではプロパガンダもダメだし、カトリックもダメです。カトリックは悪いものだと教わりました。


その時代の人たちはその中で真剣に生きていて作り出したのがバロック芸術だとすれば、悪いとか悪くないとかそんなことは気にする必要はないです。私は良い事か悪い事かではなくて人間の営みとして見ています。人間の社会では清く正しい組織が理想通り運営されることはありません。それが人間という生物の習性と言えるでしょう。

人間の社会が清く正しく理想通りにに運営されることを望んでいてそうでないことを責めるのならとんでもなく自分たちのことを思い上がっています。自分たちを過信し調子に乗って付け上がっています。人間の社会ではそのようなことは起きたことがありません。

当時の人たちは「人間は天使と動物の中間の存在」と考えていました。完全に理性によって正しい行いをするものではないというのが人間を正しく理解していることです。自分たちよりも気高い存在があると考えていました。今の風潮は自分のことは置いておいて他人には天使のような清らさを求めるようです。自分を怒れる神のように完全無欠だと思っているのでしょう。


こんなに悲観的になってしまうのはとんでもない業界で働くことになったからかもしれません。しかし私は人間を知ることによって素晴らしさを理解できると思うのです。
地獄について人間が想像すると非常に想像力が豊かなのに対して天国をイメージした絵は殺風景なものです。西洋でも日本でも地獄の悲惨さについて描いた絵はまるで見てきたかのようなリアリティがあります。

人間のダメなところも見つめていくと弦楽器の味も分かるようになるでしょう。




そのため現代の楽器製作からも一歩引いたところから見ています。
今の時代の渦中にいる人はより狭い視点で常識や流行の中を生きています。
現代の競争の中で勝負することに私は興味がありません。私が切磋琢磨するとすれば何百年も前の職人とです。


バロックヴァイオリン

私はバロック音楽のファンですが鍵盤楽器の曲でもチェンバロの代わりにピアノで弾いたものを聞くと物足りない感じがします。音楽の才能に長けた人は楽器の音色を聞いているのではないのかもしれません。しかし私にとってはそれも雰囲気の内で聞いていてもバロックの時代の風景が頭には浮かびません。

それと同じように本来なら弦楽器でもバロック仕様の楽器を好みます。



私が作ったバロックヴァイオリンです。アマティのコピーでアンティーク塗装です。




アーチはそれほど高くはありません。アマティはアーチが高いという常識を教わっていたのでかならずしもそうでないことを研究していました。以前のアントニアッジについて説明した時と同様にポイントは周囲のえぐり方です。周囲の溝からの立ち上がりによってアーチはキャラクターが決まります。

f字孔もストラディバリナイズされていません。そのままです。


駒が近代のものとは違います。テールピースも違います。テールピースは私がデザインして自分で作ったものです。これを量産しようということでしたが、まだまだできそうにないです。昔の人は機械で製造するのに適した作り方をしていないのです。駒は市販のものです。




ネックは当時のアマティのものに忠実ではありません。現実問題としてバロックヴァイオリンを弾く人も初めはモダンヴァイオリンから学んでいて北イタリアのスタイルのものは違和感が大きすぎます。正真正銘のバロックヴァイオリンでありながら出来るだけモダンヴァイオリンとの違和感を少なくしています。
ネックは水平ではなくいくらか斜めになっています。こうすると駒の高さを同じにした場合の指板の厚みが薄くなります。

これは東ドイツ、ザクセンで19世紀に作られたバロックヴァイオリンでネックも指板も作られた当時のままです。19世紀にはチェルーティーでもこのようなスタイルになっています。これがなぜ残っているかというとこのままモダン楽器として使われ続けたからです。ザクセンでは17世紀からこのようなネックのものが作られていました。J.S.バッハなどの周辺の人たちが使っていたのはこのようなもののはずです。ドイツ語圏でも南ドイツやオーストリアではイタリアのものに近いものでした。

フランスやプレッセンダなどの初期のモダンヴァイオリンもこのようなネックでさらに急な角度で取り付けてありました。19世紀の後半にドイツで大量生産が始まると現代のようなネックになっていますが同じ時代のフランスではそのようなネックが使われ続けました。

「モダン楽器のネックは斜めになった」というのは19世紀のモダン楽器で20世紀になるとそこまでななめではありません。角度についてはバロックヴァイオリンとも変わりません。

そのためモダンのネックでもバスバーと駒と弦を変えれば「バロックヴァイオリンの音」にすることができます。ここで大事なのはバスバーを変えることです。小さなバスバーです。モダン楽器にバロック駒と裸のガット弦を張っただけのものは酷い音がします。たまにバロックヴァイオリンを試しに弾いてみたいということで一番安価な中古量産品に駒と弦だけ変える人がいますが、本格的にバロックヴァイオリンを弾くようにはならないでしょう。

裸のガット弦自体はモダンの時代でも使われていましたが、駒がモダンになっています。モダンの方が柔軟性がありきつい音が抑えられます。バロック駒では荒々しい音がダイレクトに聞こえます。バスバーが小さく楽器自体も柔軟であれば荒々しい音にはならずにバランスの良いものになります。

この楽器は只今貸出し中です。
オーナーが決まれば細かい仕様はカスタマイズする必要があります。


バロックヴァイオリンを作るときに私が心がけていることは「現代風にならないこと」です。
いかに美しい楽器であったとしても現代風の楽器をバロック仕様にしても雰囲気が出ません。
作られた当時は新品だったのでそれが正しいと理屈では言えます。
しかし古びた感じのほうが雰囲気があると思います。


最近はモダンヴァイオリンの製作に力を入れています。モダンヴァイオリンでも現代的な音ではなくて味のある音のものを作ろうという試みですからこの前作ったようなピエトロ・グァルネリのコピーなんかはバロックヴァイオリンにしたらとても良いと思います。古くて良質なバロックヴァイオリンを入手するは難しいですからかなり良い線行くと思います。モダンでの経験がいざという時に生きてくるでしょう。


チェロの続き

いつかチェロを作ろうということで調べていますがチェロでも現代のものとは全く違うものを作りたいです。それが確立すればバロックにしてもどっちでも行けるはずです。

以前はアマティのものを作りましたが、さらに改良できる点が無いかと考えます。
楽器を買う時にだれも気にしない点ではありますが、ストラディバリのチェロは細長くて弓のスペースが広く取られていると紹介しました。モンタニアーナはそれに対してとても狭いものです。モンタニアーナはそんなことは考えていなかったのでしょうがプロとしての責任があるのは演奏を妨げない楽器を作ることです。さっきのバロックヴァイオリンでも「昔と同じだから正しい」と言い張るのではなくて使う人のことを考えなくてはいけません。

それで調べてみました。


Aは駒の位置から上のコーナーまでの距離でここが広いほど弓の使える範囲が広くなります。Bは値が小さいほど弓の使える範囲が広がります。表板の上のコーナーやミドルバウツの部分は古い楽器ではより多く傷ついています。つまり弓がぶつかったということです。もちろん形状なども影響しますのでこの数字だけでは言い切れませんが参考にはなるでしょう。

①A・ストラディバリ  A:134mm B:116mm
②F・ルッジェリ    A:133mm B:120mm
③G・グァルネリ    A:131mm B:120mm
④N・アマティ     A:125mm B:128mm
⑤モンタニアーナ   A:116mm   B:126mm

Aは写真から計算したもので実測値ではありません。Bは公表されている裏板の寸法を半分にしたものです。アマティはワイドなモデルです。

このようにしてみると弓の可動範囲という点でいかにストラディバリが優れているかということが分かります。
細長いモデルであるだけでなく上と下のコーナーの間隔が広いため弓の使える範囲が広くなっています。近代以降ストラディバリモデルが理想のチェロとしてそればかりが作られてきた所以でもあります。それに対して最近流行したモンタニアーナはこの中では最低なものです。
ニコラ・アマティは優雅なカーブをしているためどうしても上のコーナーの位置が低くなってしまいます。コーナーから上の部分の輪郭が丸みを帯びているからです。四角ければ上端から上コーナーまでを短くできます。若いころの巨大なストラディバリも同様です。


ヴァイオリン職人でも保守的な人はストラディバリモデルじゃないとダメだと考えます。モンタニアーナのようなものは形も不恰好だし、弓の可動範囲も狭いので作るわけにはいかないと考えます。商売っ気のある人は流行しているからと何も考えずにモンタニアーナモデルで作ります。

どうするべきかは私の中でまだ結論は出ていません。
ストラディバリが優れたチェロモデルであることは分かり切っています。
アマティ譲りの美しさと弓の可動範囲を両立するのはルッジェリです。
ジュゼッペ・グァルネリも遜色ありません、優れたものと言えるでしょう。ただし仕事が粗いためそのまま作るわけにはいかずモディファイが必要です。ヴァイオリンであれば本物そっくりのレプリカを作ることによって粗い仕事でも「味」にすることができますが、チェロの場合には価格を抑えるために本格的なコピーは難しいです。そうなると「ただの雑に作られたチェロ」です。モディファイすればジュゼッペ・グァルネリらしさは無くなります。


「どれくらいの大きさが良いのか?」という全く漠然とした状態です。
古い高価な楽器から型を取らなければ音が悪いものになるということはありません。自分でデザインしても構いません。

考え方としては候補をいくつか考えてそれぞれ作図したりどんな感じになるかイメージしたりしてその中から一つを選ぶというのが私のやり方です。

一般の企業なら普通かもしれません職人の世界ではそんなことをする人はまずいないでしょう。




 
常識を重んじる年長者と時代の流行を重視する若者との構図がチェロ製作にもあります。
人間の社会の縮図です。
弟子がモンタニアーナモデルを作りたいと考え、師匠が頑なにそれを認めなければ対立になります。量産品でも職人が経営する弦楽器店ならモンタニアーナモデルは置かないということもあり得ます。商売人なら喜んでモンタニアーナモデルを置くこともあるでしょう。

こういうのは技術的な合理性で考えるとくだらない事のように思いますが、職人の世界では極めて重要な問題です。


フォーマルなのがストラディバリモデルと言いましたがまさにこのことです。かつてはクラシックの演奏家は燕尾服を着て蝶ネクタイを締めていました。いまでもジーンズにTシャツでステージに上がる人はいません。日本ではお客さんの服装はカジュアルでも構いませんがヨーロッパならやはりコンサートには正装していくものです。日本のサラリーマンの様な自我を消すためのものではなくてパーティーに行くような服装で、コンサートはパーティーの出し物にすぎません。
もちろん熱心な音楽ファンが孤高の芸術家のようなボロボロの服で行っても誰にも怒られはしないでしょう。ただし元々社会的地位の高い人たちの集まりだったということは間違いありません。

それに対して演奏家のプライベートの練習ではカジュアルな服装は珍しい光景ではありません。コーナーやエッジにはジーンズの青い染料が染み込んで緑色になっているチェロがよくあります。

クラシックという世界が独特の文化を持っています。楽器類も極めて保守的な考え方になっています。


私自身は歴史というのは無視できないと思いますがあまりにも「しきたり」でがんじがらめになってしまうことはもっと長期的に見たときにくだらないと思います。流行も同じです。どちらに対しても中立でいたいと思います。

世代間の争いも流行の年代が違うだけです。一昔前の流行と今の流行の違いは今は重要で世代間で修羅場を引き起こす深刻な争いの種ですが未来の人から見ればどうでも良いものです。年長の職人たちが正しいと信じてきたことが「20世紀の流行」であったことをこのブログでも解明してきました。今の流行も未来の人には過去の流行だと解明されるでしょう。