弦楽器の真髄について語ります | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

チェロの話の予定でしたが弦楽器について一番わかってもらいたいことを書きます。
後半チェロの話も始まります。
これまでに誤解を招くようなことを書いてしまったことを反省しています。



こんにちはガリッポです。

私は当ブログでいつも「弦楽器はひどくなければ何でも良い」と言っています。
これは本気で言っているのですが、分かってもらえてるでしょうか?

作者にはそれぞれいろいろな考えはあります。しかしながら、科学的に見て、方式が違うとか、しくみが違うとか言うほどの違いはありません。同じものを違う人が作っただけです。

我々の業界でも「○○のように作るべき」とか「××のように作ってはいけない」とか言われてきました。しかし、思っているよりもデタラメに作ってもちゃんとした音になるのです。

アーチは高くても低くてもちゃんと良いヴァイオリンになります。それを私は証明しました。高いアーチのヴァイオリンを私は作りましたが、高いアーチ推進派でも何でもないです。ペッタンコのアーチも作ったこともあり音は良かったです。フラットな楽器か高いアーチがどちらかを作ろうと候補を挙げていました。気まぐれで高いアーチを採用しただけです。

私が言いたいのはアーチの高さなんてものは何でも良いということです。
明らかに見た目は違ってもどれも立派な楽器になります。
オールドの楽器を調べて分かるのは作風はバラバラで同じ人でもものによってバラバラ、裏板を見ても上と下、右と左でバラバラなのです。ストラディバリやデルジェズの話ですよ。
適当に作ってあるだけなのに良い音がするということが分かります。


一方現代の楽器はどこの楽器もそっくりです。

戦前のヴァイオリンがあった時、これがどこの国のだれが作ったものなのかはほとんどの場合分かりません。職人が見ても分からないし、何千と楽器を見てきた鑑定士でもわかりません。プロが見ても違いなんて無いのです。

分からなければ値段は50~100万円です。クオリティによって仕事が粗ければ50万円、丁寧に作ってあれば100万円です。

もしそれがイタリアの作者のものだという証拠が見つかれば500~1000万円になります。しかし物自体は50万円のものと500万円のものは変わりません。100万円のものと1000万円のものは変わりません。ただ作者の名前があるかないかだけです。

私は1000万円近くする20世紀のイタリアのヴァイオリンをいくつか知っています。音については、私個人の感想では特に100万円クラスのヴァイオリンより優れているとは思いません。感じ方は人によって違うでしょうが、私は値段にビビったりせず楽器を見れば神様ではなく人間が作ったものだとわかるからです。少なくともすべての人が脱帽するようなものではありません。


過去記事を参照してください。
500~1000万円する近代のイタリアの楽器の音がそれほどでもないという例を紹介しています。前半の部分です。
http://ameblo.jp/idealtone/entry-11967076092.html

私もヴァイオリン職人の勉強を始めて、初めの数年くらいはイタリアの有名な作者の楽器の音が良いのだと信じていました。しかし経験を積むことでそれが事実ではないことに気づきました。
一般の人が弦楽器について勉強してもプロの職人を目指す人が数年間みっちり勉強するレベルには届きません。下手な知識なら無い方がましです。


モダンイタリアの楽器があっても私はそれほど興味を示しませんが、特別嫌っているわけではありません。

取り立ててその楽器に注目しないだけで、100万円の楽器と同じように興味を示しているだけです。モダンイタリアの楽器があった時、もし美しい外観やニス、音が良ければ参考にします。でもそれは100万円のヴァイオリンでも同じことです。




オールドのように見た目がバラバラでも、現代のように見分けがつかないほどそっくりでもすべての楽器の音は違うのです。理由は分かりません、弾いて試すしかないのです。重要なのは適正な価格で買うことです。これは本当に重要です。有名な作者のものと思って買ったのがニセモノだということはよくあります。業者は「本物だと思って売った、悪意はない」としらを切ります。

古いイタリアの楽器を買ったという日本人の人を何人か知っていますが、確実に本物だというケースはゼロです。100人中数人くらいがだまされると思っていませんか?




音が聞き分けられるのなら50万円のヴァイオリンでも500万円のヴァイオリンよりも気に入ったものを見つけることができます。なぜかと言うと楽器自体にはこれと言ってレベルに差はないからです。違いは名前だけです。


500万円のヴァイオリンが500万円の価値があるのは「確かな」鑑定書がある時です。なければ50万円の価値しかないかもしれません。したがって鑑定書が450万円で楽器自体が50万円ということは現実のことです。冗談ではありません。
500万円で鑑定書付きのヴァイオリンを買ってもその鑑定書が偽造だとわかった瞬間に価値は50万円です。このような被害は現実に日本でも起きているのです。だからと言ってその楽器の音が悪いということはありません。50万円の楽器の音が必ずしも悪くないからです。






したがって100万円の無名のヴァイオリンは500万円のイタリアのヴァイオリンよりもずっと品質が良いということがあります。100万円のヴァイオリンはいかに腕の良い職人によって作られ美しく見えても名前が無いのでそれ以上の値段にはなりません。


この前もハンガリーの戦後の楽器を下取りしました。
ハンガリーの作者のラベルが無ければそれがハンガリーのものであることは私が見ても全く分かりません。ハンガリーでもイタリアでもフランスでもドイツでもイギリスでも違いが無いのです。

イタリアのラベルが貼ってあれば偽造の可能性が高いのでどこの国のものなのかは全く分かりません。偽造でハンガリーの無名の作者のものを貼るとは思えないので信用しているだけです。イタリアのヴァイオリンにハンガリーの作者のラベルを貼ってしまえばそれがイタリアの楽器とは分からなくなります。そんなことをする人がいないのは儲からなくなってしまうからです。


国や流派を特定できる方が珍しいです。
ザクセンやボヘミアのように大量生産の流派は割と特徴があります。
それでもマルクノイキルヒェンと思っていたらミッテンバルトだったりします。私には見分けがつきません。

まれに流派や国の特徴のあるものがあって、「典型的な」とイメージしますが、それは例外的なケースです。



見た目でも楽器を見分けられるのはほんの一部です。
これが音で作者や産地を見分けることは不可能です。

言い換えると楽器を見てもその楽器がどんな音がするかはわからないということです。
もちろん国による音の特徴などありません。


結論は・・・・

特別プレミアのない99%の楽器の場合、適正な値段で売られているのなら、値段が品質や加工の美しさを表しています。しっかり作られた美しい高品質な楽器が欲しいなら100万円のヴァイオリンを選ぶことです。

音さえ良ければ良いのなら50万円のヴァイオリンの中から音が良いものを探して買うことです。


音が良いかどうかは弾いて試す以外にはありません。




プレミアがついている楽器もついていない楽器も楽器として技術的に見ると違いはありません。
10倍の値段に見合っているかは価値観によります。

私の考えを言うと会社経営者などの富豪ならプレミアのついた楽器を買っても良いと思います。そうでない人は無名な作者の楽器から選ぶほうが良いと思います。


所得が下位95%の人がプレミアのついた楽器に手を出す必要はありません。
真面目で心優しい人には手を出さないことをお勧めします

少なくとも私は恐ろしいのでそのようなものには近づきません。
イタリアの古い楽器を買うということは丸腰でたった一人で戦場に行くようなものです。
私にはなぜそれほどまでに自分の力を過信しているのか信じられません。


もし買った場合はそれがニセモノかどうか詮索せず墓場まで行ってください。
遺族が「そうだったんだ」と知るのです。
結局明らかな特徴が無い楽器は本物かニセモノか分からないままです。
信じきる自信が無い人は止めておいた方が良いと思います。


私のところではそれほどイタリアのモダン楽器に人気が無いのであまり多く出回っていません。
1000万円するような楽器でもその人のお父さんが当時新作として買ったものだったりします。ディーラー車ワンオーナーというやつです。当時は無名で値段は安かったはずです。意外と本物があるのです。

日本で売られているものに鑑定書が付いているということはいろいろな業者の手を渡ってきたということになります。手口が巧妙なのです。彼らがみなおいしい思いをしてきたものだけが日本の店頭に並んでいるのです。



100万円も出せば技術者としては文句のないヴァイオリンが買えます。音はそれぞれ違います。好きか嫌いかです。このような楽器はヨーロッパにはたくさん眠っていて中古品として数が多く充実した価格帯です。いずれも修理が必要で職人は日々修理に追われています。

名前が本に載るくらい知られている人なら100~200万円になることもあります。それでも実力を表していると言えるでしょう。

新作の場合150万円くらいが製造者の希望価格ですがそれが中古として出回った時の販売価格は100万円に満たないでしょう。クオリティによってはずっと安くなります。なぜ修理に追われているかと言えば、現代の生活水準で楽器を作ると昔のものに対抗できないからです。現代人の生活で利益を考え150万円などと価格を設定すると市場価格を上回りますから新作は事実上ビジネスとして成立しません。でも名前は確かにわかっていますから150万円なら不当に高すぎるということもないでしょう。新作に200万円とか300万円とかはクレイジーです。



これが日本にも当てはまるかというとそうではありません。
皆がこのことを知らないからです。

50~100万円というのは売れない価格帯として日本の楽器店ではあまり品ぞろえしていません。日本の消費者は「お手頃価格の量産品」か「プレミア作者」のどちらかでないと魅力を感じないからです。無名な作者のすぐれた品には誰も興味が無いのです。50万円だと何も知らないくせに初めからバカにしてしまって音が良い楽器を探そうという気もありません。

私のところではヴァイオリンの演奏を一生の楽しみとしたいならとりあえず50~100万円で楽器を選びます。悪いヴァイオリンで何千時間と楽器を弾くのはもったいないです。でも100万円も出せば文句ない出来のものがあります。音だけなら50万円でも変わりません。もちろん200万円予算があれば選択の幅は広がります。



所得水準がプレミアでもないくせに自分はプレミアのついた楽器を買いたいのです。
そこに業者は付け込んでくるのです。



一方理系的な趣味もあります。
優れた工業製品には何らかの優れた特徴があると思い込んでいます。
しかし、フルートとヴァイオリンの違いは科学的に説明できます。しかしヴァイオリンとヴァイオリンの違いは説明できません。
弦楽器はみんな同じ構造のものです。でもなぜかみな音が違うのです。



だから私はいつも言ってます。
「ひどくなければ何でも良い」と。
とっつきにくい話でも楽しめるようにユーモアも入れていますがこれは本気で言っています。



日本で考えるとこの価格帯は個人の職人から直接新品を買うことができます。一人一人癖があってコンビニに行っておにぎりを買うようにはいきません。多くのユーザーは街の大きな弦楽器店に行くのが多いでしょう。そうなるとこの価格帯はあきらめたほうが良いです。100万円の日本人やドイツ人のヴァイオリンがあったのなら仕入れ値は数十万円です。きちんと作ったら暮らしていける収入ではありません。当然雑に作られています。


職人にはいろいろいて、私のように凝り性で一つの作業に何時間でもかけてしまう人もいるし、手際よくササッと終らせる人もいます。いずれも訓練を続けていれば良い楽器が作れるようになってきます。凝ったものは100万円でも安すぎるくらい手間がかかっていますが、ササッと作るタイプの楽器ならもっと安くできるはずです。凝りに凝ってはいなくても音響的には悪いわけではありません。それが消費者の望みと合致するのなら良いヴァイオリンです。当然200万円、300万円するイタリアの楽器と違いなんてありません。音はそれぞれ違います。



私のところでは豆腐が300円で売られています。
豆腐はベジタリアンや健康食品マニアの間で「Tofu」としてもてはやされているからです。
もちろん日本でも高い豆腐はあるでしょう。でも普段普通に食べる豆腐はそんなに高くないですね。日本で50円で売っている豆腐でもこっちで300円で売っている豆腐よりずっと質が良いです。こっちの豆腐では冷奴として食べれたものじゃないです。日本人は豆腐の良し悪しが分かるからです。当然価格にも厳しいです。

六甲のおいしい水がこっちのレストランで一杯一万円で出されていたという話も聞きました。


本来100万円くらいのものを200万円や300万円で売れるとすれば業者は喜んで売ります。そのための努力は惜しみません。熱心な企業努力です。
その利益率が当たり前となってしまえば50万円のヴァイオリンだって本来は20~30万円で売るべきものにします。

日本ではそのようになっているのです。
ひとつはクラシック音楽が外国のものであり、弦楽器の演奏人口が少なく市場規模が小さいことで、営業マンの給料、店の維持費を賄えないからです。



私がブログを通じて言いたいことは

①これまで業界で言われてきたことは当てにならない
②どんなふうに作ってもちゃんと弦楽器の音になる
③なぜかわからないが全ての楽器は音が違う
④それぞれの職人が好きなように楽器を作れば音の種類も豊富になる
⑤ユーザーは自分の感性で好みのものを買える


というものです。
どうですか?楽しく幸せになりませんか?

多くの人は何が良くて何が悪いか決めたがります。
道楽の道を極める人は有名どころや好きなジャンルがあってもやりつくして飽きてしまうので違うものにも手を出してきます。本当に好きな人はマイナーなものにも愛情を注ぐのです。
楽しむことを知らない人は、あれはダメ、これはダメと決めて行ってしまいます。
楽しみを減らすことに必死になっているのです。こういう人に何を言っても無駄です。


私は自分の楽器を作るときは熱中しています。申し訳ありませんが熱くなっていて客観性は失って熱く語っています。しかし私の作っている楽器がほかの職人の楽器に比べて優劣の差があるとは言っていません。こんなにメチャクチャに作っているのに一般的な楽器と比べて劣っていないと思っています。独特の味のある音で好きな人にはたまらないでしょう。私個人は一般的なやり方で作った音は好きではありません。でも性能差までは言えません。

そう言うと「また謙遜して」と思われるかもしれませんが本当です。

フランスの楽器

わけがあってフランスの楽器について調べていました。

フランスの楽器と言えばリュポー、シャノー、ヴィヨーム、ガン、シルベストゥル、ブロシャ・・・と美しい楽器が頭に浮かびます。作風がバラバラでメチャクチャのオールドのイタリアの楽器を研究しその中からフラットなタイプのストラディバリを理想のヴァイオリンとして定め、さらに仕上げを完璧にしました。オールド楽器ではアーチはボコボコでしたがフランスの名器ではそんなことはありません。アドリブで現物合わせで作っていたストラディバリとは違い、型によって厳密に作り上げたものは外枠式で作ることによって誤差なく完璧に作れます。
ヴィヨームが自分で楽器を作っていなかったのは有名で権力で牛耳ることで超優秀は職人を下請けに使うことができました。

フランスの楽器はヴァイオリン職人にとって最高のものです。
そのため、これらは19世紀にはすべてのヴァイオリン職人の手本として広まりました。現在のヴァイオリン職人は自己流の独学を除けばすべてフランス風のヴァイオリンを元にしています。
多くの職人は不勉強でそのことを知りません。


ところがフランスの楽器を本で見ていると「これがフランスの楽器?」と思うようなものが半分くらいありました。本に載せるくらいだから選りすぐりのフランスの楽器のはずです。私が思い描いた一流の職人の楽器は例外的なものです。立体で見ると少し違うのですが。

多くののフランスの楽器はそこまでのクオリティが無いため、他の国の楽器と見分けはつきません。それでも、他の国なら上等な方に入るのがフランスの楽器作りのレベルの高さです。
例えばジュゼッペ・ロッカについて2流のフランスのヴァイオリンとそっくりだという専門家もいます。それもそのはずで当時トリノには何人もフランス人が来ていました彼らからヴァイオリンづくりを教わったのです。フランスでは厳しい選抜システムがあったため一流の職人となった人たちは人類にはこれ以上不可能というクオリティのものを作りました。それに比べるとロッカはそこまでではありませんから、2流のフランスのレベルというのです。


というわけで2流、3流のフランスの職人が作るのと同じような楽器はフランス以外の国でも作られました。そのためどこの国の楽器でも違いが無いのです。ストラディバリ自身が作ったものは作風がバラバラで皆違うのに対して、現代ヨーロッパ中の職人の楽器ははるかに似通っているのです。

当然音の差も偶然の差です。
だから作者名や値段と実力が関係ないのです。


私が楽器を作るときには古い名器などをお手本にして作ることが多いです。少し削っては本やポスターの写真と見比べるのを何度も何度も繰り返していきます。

しかしそのような職人はほとんどいません。私は自分以外には見たことが無いです。

多くの人は頭の中で考えて作っています。そのため個人個人によってセオリー通り作っているとは言っても多少の「癖」があります。個人個人癖がありますが、おなじような癖の楽器を作る人はどこの国にもいます。どこの国であってもそのような癖は存在し得るのです。人間が作っているからです。

だから楽器を見てもどこの国のものなのかわからないし、違いは個人差のほうが大きいというわけです。

さらに20世紀後半から21世紀になると国による違いよりも個人差のほうがはるかに大きくなります。ポスターが出版されているため世界中の職人が同じ形の楽器を作っているのです。


私は小さなころが興味があるものがあると必ず絵に描いていました。動物に興味があれば動物の図鑑を見ながら絵をかいていました。自動車や電車に興味があれば絵に描いていました。
お年玉で何か欲しいものを買おうとしていればお正月になるまでそのものの絵をかいていました。好きなものを買ったときはそれを絵に描いていました。

普通カニはにっこり笑った口を描きますが、それは背中側です。幼稚園の時点でもカニを観察していたので許せませんでした。動物の関節も正確に理解していました。

絵にかくというのはそのものをよく見てどういう風になっているか知らなければリアルに描くことはできません。リアルな絵をかくということはそのものがどういう形をしているか理解することです。私はそうやってものがどのようにできているか4歳や5歳のころからやってきました。

ヴァイオリン製作学校時代のノートを見ても、プラモデルの説明書のようにヴァイオリンの作り方が全て図で描いてあります。
うちで面倒見た見習いの職人はすべて字で書いてありました。一ページぎっしり字で埋まっていました。現在では楽器商に転身しています。私は当時からまともな職人になることはないとわかっていました。言葉で物事を理解していたからです。



私の描いた絵を見たある中年女性の人が「私は絵を習い始めた初心者なのですが…」と話しかけられました。私は絵の描き方なんて習ったことはないです。興味があるものがあれば絵に描いて理解してきました。

物をよく見てどのようにできているか把握するということを楽しみとして生きてきました。
対象物と自分が描いている途中の絵の違っているところが無いか見比べて何度も何度も見ることによってそれがどうなっているかわかるのです。

今でも全く同じです。
オールドの名器を見て理解していくのです。ほとんどの職人は見ていても理解していません。私の作る楽器がほかの作者と全く違うのはそのためです。イタリア人のヴァイオリン製作学校の先生だった人も私の楽器を見て目を丸くして驚いていましたよ。イタリア人のリアクションは分かりやすいです。



ヴァイオリン製作を教えているときは私は必ずお手本を用意して見せます。実際の楽器や本があれば見せて「こういう風にするときれいだよ」と置いておきます。しかし、みな作業に取り掛かると楽器や本を片付けて作業にかかるのです。

私は言います。「少し削ってはお手本と見比べて同じようになっているか何度も確かめながらだんだん仕上げていくように。」と。にもかかわらず皆お手本を片付けてしまいます。

私がこうしなさいと言っているのに、なぜか軽んじて言う事を聞いていないです。
私はもうそれ以上何も言いません。私は何度も見比べて理解していくことを楽しみとしてますがその人にはその楽しみは分からないのです。


そのため仕上がった楽器はその人の癖にあふれたものになります。大きくは外れていませんがその人の癖があるのです。「天然」というやつです。

そういう癖がどの楽器にもありますし、特に2流の職人の楽器には強く出ます。それを見ていると面白いのです。2流と言っても楽器の構造に問題があるわけでなく音が悪いわけでもありません。むしろ私が作るよりも良いかもしれません。

現代の弦楽器というのはそういうものだとわかってほしいです。
同じものを目指して作っているのにお手本をよく見ていないので癖があるのです。
特にヨーロッパ人は強いですね。日本人や韓国人、中国人は形が整っています。欧米の人のほうが天然丸出しです。いろいろな国の人の楽器が載っている本を見ると酷いのは皆ヨーロッパ人でよくできているのはアジア人です。高い値段でヘンテコな楽器はすべてイタリア人のものです。よその国の作者ならガラクタとして扱われるレベルのものです。


癖があるとはいえセオリーが決まっていて発想が限られているので個性的な楽器も「どこかで見たことがある」というのが現代の楽器です。そのため無名な作者の楽器があった時に、イタリアの楽器の本を見ると偶然他人の空似のようによく似た楽器が見つかります。ラベルを偽造するとニセモノの出来上がりです。他人の癖をそっくりに似せて作るのはよほど腕が良くないとできませんが、癖の似た楽器を探すほうが簡単です。まねてニセモノを作るというよりは似ているものを探すのです。まねて同じものができるのなら超一流の職人です、彼のほうが腕が上です。



私が取り組んでいるのは現代の楽器とは違うものはできないかというものです。

帽子

私は一度何かに興味を持つとそればかり気になってしょうがない性分なのですが、最近は作業服に興味を持っています。

新聞でも工場などの写真を見ると帽子をかぶっています。トヨタ自動車の工場でも帽子は着用しています。
私は帽子なんて子供の時以来被ったことが無いです。帽子が無くても何の不自由も感じずに生きてくることができました。「帽子なんて要るのかな?」と思いました。

大学生の頃にちょっと友人の帽子を借りて被った時にまったく似合わなくて笑われた経験があります。どうせ似合わないだろうと思っていました。

普段からかぶっていないから、様子が変わっておかしく見えたのでしょうか?それとも何か骨格的に似合わない原因があるのでしょうか?



こちらにいてアジア人の観光客がいたとき、日本人と見分ける方法は女性が日傘をさしていれば間違いなく日本人です。西洋の人は太陽光を浴びるのが良いことだと信じているので決してそんなことはしません。これは日本人には不思議です。確かに、かつてはビタミンが不足して日光浴によってしか得られませんでした。日本人にとっては紫外線は有害なものと認識されていますが西洋の人にとっては薬のようなものだと考えられています。日本ではニュースの天気予報でも「厳しい日差し」とネガティブにとらえられますが、こちらでは「美しい太陽光」としか言われません。

そんなこともあって日本人男性は特に高齢な方ほど帽子をかぶっています。団体で高齢な男性が帽子をかぶっていればまず日本人です。中国人は大きなサングラスをしているのでわかります。これも話を聞くと中国本土でサングラスをかけているととてもねたまれるらしく、外国に行ったときにはハメを外して思いっきりサングラスを満喫するそうです。




日本人の高齢男性は必ず帽子をかぶっています。
私も帰国して実家から離れて住む私の兄と甥がやってくるとお揃いの帽子をかぶっていました。親子で同じ帽子だなと思っていたら、私の父も同じ帽子の色違いをかぶっていました。親子孫三代で同じ帽子をかぶっていました。たまたま買ったのが同じメーカーの同じタイプのものだったのです。

私は全く帽子の必要性を考えたことが無く、かぶっていないのは私だけでした。





19世紀くらいの西洋の写真を見ると人々は皆帽子をかぶっています。労働者だけでなく紳士もです。フォーマルなスーツにはヒゲと帽子は必須でした。今就職試験に大学生が口ひげを蓄えてシルクハットをかぶって行ったら変に思われるでしょうがそれがフォーマルな服装でした。

ミルクールのヴァイオリン工場の写真を見ると年配の人は運転手や学生帽みたいな形のもう少し柔らかい帽子をかぶっています。若い人はキャスケットというハンチングのような帽子をかぶっています。キャスケットはフランス語で英語ではいろいろな呼び名があるようですが、アメリカでは新聞配達の子供がかぶっていたのでニュースボーイキャップなどとも言うようです。


帽子についてみてみると、ある同じタイプのよく似たものでも

①中国製  1000円
②中国製に先進国のメーカー名   3000円
③日本人の職人が手作り  1万円
④海外有名ブランド   2万円

およそそんな感じです。
帽子も弦楽器とよく似ています。特に値段が高いからと言って構造や機能に違いがあるわけではなく同じ仕組みのものです。でも値段には開きがあります。

中国製の1000円のものなら、もしかしたら品質が悪くて使っているとすぐに壊れてしまうかもしれません、安い材料を使っているかもしれません。そこで先進国のメーカー名のついたものならメーカーが品質管理しているので少し安心と思う人もいるでしょう。物自体は1000円のものと変わらないかもしれません。

これらをメーカー名を隠して並べて好きなものを選ぶとしたらもちろん高い物が気に入る人もいるでしょうが必ずしも高い物が好みのデザインや被り心地とは限りません。デザインが気に入ったものを選んだ結果1000円の中国のものになるかもしれません。

なぜかと言うと中国のメーカーは不恰好な帽子を作るとは限らないからです。彼らも研究してデザインすれば素敵なものを作ることができます。中国にはたくさん人がいますからできる人もいるでしょう。


品質には不安があります。
販売店が中国の製品の中でも専門家としてひどく粗悪でないと選んでいるなら1000円の帽子でも良いですね。3000円出さなくてもお墨付きがもらえます。


弦楽器も似たようなもので中国製でも販売店がプロの目で良いものを選んでいるかが重要になります。


日本人の職人が作る帽子が1万円だとして法外な高い値段だと言えるでしょうか?彼は生活を考えて計算すると1万円になってしまうのです。じゃあ1000円の帽子よりも性能が優れているかと言えば、「好みの問題」としか言えません。これも弦楽器と同じです。1000円や3000円のものにはない魅力があって好きだと思えば1万円の価値があります。優秀なデザイナーを雇っている大手メーカーの中国製品のほうが美しいと感じる人もいるでしょう。それに対して頭のサイズを測ってぴったりのものを作ることもできます。布地の種類や格好も選べるかもしれません。


今度は2万円のブランド帽子です。
1000円でも販売店が質を保証しているのなら帽子としての構造や機能は変わりません。壊れてもまた買えば良いです。2万円の帽子をかぶったからと言って、空を飛べるわけでもなく頭が良くなるわけでもありません。価値が無いと言えるでしょうか?

理由は何であれ、その人がその帽子を気に入ったというのならそれを否定することはできません。気に入らなければ2万円するからといって優れたものと強制されることもありません。


弦楽器も同じです。


これが機械であれば、高い物は精度が高く安定性があり、パワーがあってこなせる仕事や要する時間が違います。ところが弦楽器や帽子のようなものは構造や機能は同じですからそれが好きか嫌いかだけです。安価なものでも販売店が品質をチェックしていれば演奏には差し支えありません。

高品質感に満足感を感じるか、弾いてみて音を気に入るか、見た目の雰囲気を好むか、それだけなのです。


そのような当たり前のことがなぜか弦楽器を前にするとわからなくなります。
世の中には公式な機関によって優れたものと劣ったものが格付けされて決まっていてすべての人がそれに従わなくてはいけないと思い込んでいるのです。そんなものはありません。
帽子を買う時と一緒です。




さあ、帽子については無くても何不自由なくこれまで生きてこれたのに3000円かかるとしたら痛手ですね。夏用とか冬用とか、さらに毎日同じなのはいやだとしたらもっとかかかります。ヴァイオリン職人は裕福な職業ではないのでとても悩みます。街を行く人は結構帽子をかぶっています。みんな裕福なんですね。


工場では当然髪の毛を押さえるとか目的があるでしょうが、統一することで一つの目標に力を合わせるという統率の意味合いもあるでしょう。皆の好みがバラバラで制服化に失敗した零細企業のうちの会社ではそんなに時代が進んでいません。弦楽器の業界は原始的な人間社会の姿を今に残す貴重なサンプルです。

偉そうに言う事ではなく恥ずかしいことです。
でも皆さんには知って欲しいのです。どれだけ弦楽器の業界が低レベルかということをブログでは力説しています。ピンクのヴァイオリンの話もありました。あんなレベルなのです。


楽器の良し悪しを公平に評価して価格に反映するシステムはありません

チェロの改造

ヴァイオリンについては過去に作られたものが充実しており比較的安い値段でも良いものが買えます。それに対してチェロは全く違います。うちの店にも100万円くらいで一人前の職人のヴァイオリンは20本はあるのに対してチェロは200万円~300万円で一つあるかないかくらいです。うちの店はチェロのお客さんが半分くらいを占めるチェロに強い店ですよ。

全くハンドメイドのチェロが無いということではありません。残念なチェロはいくつかあります。腕が良い職人が作ったにもかかわらずずっと売れないチェロがあります。大体ヴァイオリン職人は自分のヴァイオリンの作り方を応用してチェロを作ります。

ヴァイオリンの場合には板が厚めで明るめの音であっても、ヴァイオリンとしては悪い音ではなく好きな人もいるかもしれません。20世紀後半のヴァイオリンの多くは明るい音がします。
チェロも同じように作ると明るい音になってしまいます。明るい音であったとしても好きな人もいるかもしれません。そのために店には置いているのですがずっとあるのです。

量産品なら改造してしまえばいいのですが、ハンドメイドの楽器の場合には作者のオリジナリティを尊重するために改造はしません。商売に徹するなら改造する店もあるでしょう。

そのようなチェロはあって、日本人と韓国人が持っているイタリアの(ものとされる)チェロで音が悪いというので修理すると過去に板を薄くした形跡が見つかりました。販売した業者は音が悪いので板を薄くしたのです。

私のところで考えられないのは「べらぼうに高くて音の悪いチェロを何でアジア人は買うのか?」ということです。理由は前半で説明しました。弦楽器について情報を集めるとどうしても「作者は誰なのか?」という視点になってしまいます。そんなことは気にしなくて良い事です。そのチェロの音が良いか、値段が品質に見合っているかということに注目するべきなのです。

「日本人は何でそんなにお金を持っているのか?」と聞かれます。
プレミアのついた楽器を買うのはお金を捨てても良いようなお金持ちのするぜいたくであって、普通の善良な市民のすることではありません。子供に買い与えるようなものではないのです。


日本語だけで情報を集めるのは危険ですが英語も同じです。
英語で交わされている情報は私たちにとっては全く違う世界の話です。
我々とは全く違う分野の製品の売買の話に聞こえます。
英語の情報は学ぶ必要が無いし私は読まないです。



日本人にとっては英語が分かれば世界が分かったと思っています。
私たちにとっては英語の情報に対しては「歴史の浅い国が弦楽器を分かっていないな」と一蹴です。それらは職人や演奏家にとってキャリアの初めから最後まで知らなくて良い事です。知らない方が良い事です。向き合うのは情報ではなく楽器に対してです。
英語で書かれた高価な専門書を買うことがありますが、何の役にも立たないので基本的に楽器の写真や寸法のデータしか見ません。何万もする専門書を読んでも著者を「この人、アホじゃないか」と笑っています。フォトグラファーと寸法を測る職人の仕事にしかお金を払う価値がありません。

日本にプロのオーケストラはわずかにしかありませんがこちらではただの地方公務員です。彼らの楽器なんて本当に安いものです。それでも世界中から殺到するので入団するには相当な腕前が必要です。
ある人は1000万円のイタリアのヴァイオリンと100万円もしないドイツの無名な作者のヴァイオリンを持っています。メンテナンスを担当しているのでわかりますが、使用頻度はドイツのヴァイオリンのほうが多いくらいです。愛用しているのは無名なドイツ楽器の方です。勉強するならこういうことを知るべきなのです。ドイツの楽器はただ単にまっ平らに作られたもので職人として見てもうまくもなんともないです。まさに「業務用」です。




チェロの場合難しいのは「適当な」バランスに持っていくことです。
表板の材質によって同じ板の厚さにしても全く違う音になってしまいます。厚さを木の質に合わせて変えても同じ音にはなりません。現代の楽器製作は「理論化」されていて理屈通り作ったから自分は正しいと思っている職人が多いです。それだと残念なチェロができてしまいます。

現代の正統派の職人は低音と高音のバランスが高音側に偏っている「明るい音」のチェロを作りやすく売れずにずっとあるのです。


じゃあやたら薄くすれば良いかというと、スチール弦でとても強い力がかかるので耐久性に不安が出てきます。ヴァイオリンのセオリーを応用すると厚すぎるわけですがそれほど薄くできる余地もないのです。

またあまり薄くすると低音はよく出ても、音が済んだクリアーな音で上品になりすぎて軽く弾いても音が出る感じではなくなってしまいます。音で選ぶ国では売れない原因です。

ピンポイントで当てなければいけないのでかなり難しいです。
4~5か月かけて作っても読みが外れてしまえば残念なチェロができてしまいます。300万円で買う人は明るい音や静かなチェロでは買ってくれません。

現代のセオリーを忘れて経験を積む必要があります。
私の場合にはヴァイオリンでもビオラでも暗い音がします。チェロを作れば確実に低音がしっかり出るものができます。
ただものすごく音量があるように感じるかというとそうでもないのです。
私は一生懸命やっているけど、「鳴らないね」の一言でチェロを探している人とはさようならです。
本当に弾ける人が数年弾けば明らかに鳴るようになりますが・・・。そうでなければ一生弾いても鳴らないかもしれません。

その時点での実力でしか評価されませんからこっちの消費者は本当に厳しいです。
本場の音楽家に鍛えられています。



さて帽子なら先進国のメーカーが品質を厳しく管理して中国で製造すればコストパフォーマンスには優れたものになるでしょう。

チェロの場合にもまともに作ったらとんでもなく高額になってしまいます。そこで私の勤め先では量産品よりもワンランク上の製品として、途中まで作られた工場製のチェロを買い取って改造することをしています。帽子なら3000円くらいですがチェロならそれでも100万円を超えます。

弦楽器が帽子と違うのは作るのにとんでもなく手間がかかることです。
そしてそれには訓練によってのみ会得できる高度な技能が必要だということです。


なぜなら、弦楽器はアマティ家によって500年前に設計されたもので、生産の合理性を考えていなかったからです。優れた腕前の職人、つまり自分たちにしか作れないような設計にしてしまいました。

現代の工業製品なら生産しやすいように設計することでしょう。
機械が作りやすいように設計するのです。

改めて計算し直すと隅々まで完璧にチェロを作るのを製造側の理屈で計算すると600万円を超えることが分かりました。600万円で新作のチェロを買ったと聞けば相場観からすると高すぎると感じます。せいぜい300万円でしょう。それに対して雑に作って300万円でも「このクオリティでは200万円が良いところだ。」と感じます。

西ヨーロッパの生活水準ではチェロ市場から撤退せざるを得ません
医者やIT技術者なら時間当たりの利益が倍以上あります。
医者と電話で話をするだけで30分で1万円以上の代金が発生する場合もあるそうです。

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ぜいたく品に囲まれ労働時間を短くするライフスタイルを求めた結果の自業自得です。

ネック部分から



量産楽器がハンドメイドの楽器が見分ける分かりやすいポイントはスクロールです。
機械が入らない角度があるので最後まで加工されていなければ間違いなく機械で作られた量産品です。


ところがスクロールは音には関係ありません
もちろん振動を測定する機械にかければ振動はしていることは分かります。しかし、作者が意図的に作り方を変えることで音を変えることはできません。作りによって音がどう違うのかわからないからです。

これは単純に美的なものです。
彫刻作品を見たときにこの作者のものが気に入ったとか、私は好きではないとかそういうレベルです。

資格試験などで職人の腕前を測ることができないのは、美しいと感じるかどうかという領域になるからです。何が美しいかという理論を定めることはできません。仮に定めたとしても「私はそれは好きじゃない」という人が出てきます。

渦巻きは等角曲線として数学によって計算できます。
巻き貝や台風の渦、銀河など様々なスケールで自然界に存在しています。

しかしこれをそのまま適応することが最善とは言えません。


たとえばストラディバリの場合には数学的に作図したと思われる製図が残されています。これは銀筆という筆記具で描かれたもので、鉛筆より淡い線です。これを研究すればストラディバリのスクロールが分かるはずです。

ところがストラディバリ本人はそれはあくまでおよその目安にすぎず、製図には従わず見た目の感じでなんとなく作ってあるのです。ストラディバリがノミで掘っていく途中で自分が作りたい形にしているのです。頭の中にイメージがあるのかもしれません。頭の中のイメージが本当の設計図です。そしてそれは、毎回同じものではありません。ものが美しく見えるかどうかには周囲とのバランス(調和)が役割を果たします。ほんのわずかな相互の関係によって感じ方が変わるのです。

同じ設計図で作り始めても、わずかな加工のムラによって印象が変わってきます。たまたまその時にできた形の中でなんとなくつじつまを合わせてしまうのです。

ストラディバリがこのように作っているからこれが正しいと定めることはできません。
ストラディバリ本人の目にはそう見えていたというだけです。彼は自分が作りたいように作っていただけです。誰かからこのように作りなさいと命令を受けていたわけではありません。

彼は彫刻家として才能があり、多くの人が見て調和のとれた美しいものを作ることができました。もちろん同じようなものが作れれば職人としては相当な技量があることになります。そういう意味で我々は基準としています。


これに対してインチキの職人かちゃんとした職人かを見分けるために資格試験を課そうとしても評価できるのは、「丸みがガクガクしいていないか」、ノミややすりの跡が残っていないように仕上げられているか、「左右が対称か」など表面の仕上げのレベルに関してのみです。

その形のバランスの美しさについては規定のしようがありません。
ストラディバリは自分が好きなように作っただけです。


ストラディバリもアドリブで感覚に頼って好きなように作っているので、全く非の打ちようのない完璧なものではありません。それを19世紀のフランスの人たちはさらに完璧さを求めました。これが現代の楽器製作の基本的な考え方です。このような考え方は新古典主義と言い、他の芸術の分野では否定され「現代アート」という全く正反対のものになっています。

弦楽器の業界で美しいとされるものは、現代の美術界では「良くない」とされているものです。


このように哲学的な領域に入ってきます。
したがって作者が自分の哲学を持って美を定義する必要があります。
各自自由に自分のスタイルを提唱することはできます。
しかし業界の慣習から離れていれば認められることは難しいです。「これが私の考える理想のスタイルだ」と個性的なものを作ることは自由です。ただし、中古市場に出回った時にはマイナスに評価されます。

彼の哲学に同意するかどうかは受け手の自由です。安い値段ならなおさら良いと思って買っても良いでしょう。帽子の話をしましたが、ファッションショーを見たときにどう思うかは受け手の自由です。

少なくともファッションショーとは違い、奇抜さや目新しさを競い合ってはいません


そこである程度伝統に従ったものが作られるのがほとんどです。
近代以降の楽器製作で基本となるのはストラディバリです。


ストラディバリのものを元に型を起こすことも、作り手が自分でデザインをすることも自由です。伝統からかけ離れていれば「この人は弦楽器というものを知らないな」という印象を受けます。楽器についての知識が怪しいと疑われます。

そのため自分独自のデザインと言ってもストラディバリの呪縛からは離れられないのが現代の楽器製作の現状です。

近代以降の楽器製作ではどの楽器もそっくりなのはそのためです。
うまく作られていると評価されるものは、ストラディバリ風のものを完璧に仕上げたものです。これなら8割のプロから「うまい職人だ」と評価されるでしょう。


ただし、アンティーク塗装を施す場合には、これでは現代風に見えてしまいます。新しい楽器のスタイルなのにニスだけアンティーク風では合いません。本当にファッションのスタイルのレベルの話です。70年代風ファッションみたいなものです。1700年代風とかです。逆に現代風のスクロールにアンティーク塗装がオシャレと考えることもできます。最新の現代のものにちょっと古びた印象を与えるのが好きだという人もいるかもしれません。


時代感を統一したほうが私は弦楽器のことをよく知っているという印象を受けます。
そこでオールド風のスクロールが必要になります。
流派や作者によっても様々異なります。ストラディバリとはまた違ったものがあるのです。私がモノマネなのにアンティーク塗装のほうがマネではない自分の作品より個性的だと言うのはこのためです。



スクロールだけでも語り始めたらきりがないですが、音には関係ありません
職人の間でもわかっている人は少ないので見て分かる人はわずかです。


ペグボックスは弦を巻き取るという機能がちゃんと果たせなくてはいけません。ネックは演奏するときに握りやすいようになっていなくてはいけません。ネックと指板の接着面は正確に加工されていなければ外れてしまう恐れがあります。

これらは義務です。


ところが美的な項目に関してはこだわりの世界です。
私はおかしなものは嫌いなので重要な問題だと考えてしまいますが、楽器の機能には関係がありません。


そのためコストを下げたい場合には真っ先に手が抜かれるところです。
量産楽器よりもワンランク上の雰囲気を味わいたければ機械で作られたものにちょっと手を加えることで印象が改善します。レトルト食品に新鮮な食材を混ぜるようなものです。

当然どこまでもこだわることはできません。すでにある程度でできているからです。削りすぎて不恰好な部分の肉付きをを増すことはできません。かといってほんのわずかしか手を入れないのでは違いが分かりません。そのため究極を目指すのではなく最低限の仕事で最大限の成果を上げるのが目的になります。

これによって「機械で作られた感」が著しく減るはずです。
機械が感じない美的なバランス、仕上げの美しさを足すこともできます。

あえて荒くすることによって手作り感を出すこともできます。


良くないのは、「手抜きで作られた感」と「弦楽器を知らない感」です。「不器用感」「造形センスない感」もマイナスです。つまりヘタクソのことです。


今回目指すのは量産楽器よりもワンランク上ですからセオリー通りに2流のフランスの楽器のレベルに近づければ価格を考えれば大成功です。


チェロの話のはずが文字数がいっぱいなので終了です。