ピエトロⅠ・グァルネリの複製を作る【第12回】ニスの仕事のはじまり | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

とても手間がかかるのがニスの仕事です。
ただ普通に塗れば簡単なのですが、工夫しても違いが出ないのです。
簡単といっても一人前に塗れるようになるには高度は技能が必要です。

より美しくするためにはいろいろ工夫するのですが、10年以上より美しくと新しい方法を試みながらやっていると気が付くと進歩しているものです。



こんにちは、ガリッポです。

そろそろ柿の季節だなと思っていたら、今週店に行ったら売っていました。
柿はヨーロッパでもスペインで栽培されていて一般的になっています。
多いのは平べったいものではなくて干し柿にするような縦に長いものです。これは渋柿で渋を抜いて売っているのです。今シーズン最初の柿をスーパーで買いました。新人のレジの係員は「これはKakiですか?」と聞いてきました。初めて柿を会計をしたのでしょう。かつては大根などアジアの農作物は店員が知らなかったりしました。ヨーロッパも急速に変化しています。

その大根も元をたどるとギリシアあたりの植物を改良したものだそうです。


柿を4つ買いましたがそのうち最後に食べた一つは渋が抜けていませんでした。
「こりゃあたまらん」と吐き出してしまいました。ヨーロッパの人は柿が渋いということを知っているのでしょうか?
懲りずに今度は日本のように平べったいものを買いました。柿は他の果物のように酸っぱくて食べれないということが無いので重宝しています。
どちらかというとヨーロッパで出回っているものは縦に長いもののほうがおいしいようです。



いよいよニスの仕事になってきました。5月からヴァイオリンを作り始めて週に15~20時間程度の作業で4~5か月で白木の楽器ができました。ざっと計算して300時間以上かかっていますから一般的なヴァイオリンの製作時間が200時間以下ということを考えると手間暇を異常にかけていることになります。一般的なイタリアの作者の倍以上かかっているでしょう。それで日本での値段は半分以下です。

ヨーロッパのどこの流派の教育でも一般的なヴァイオリン製作の手法というのはヴァイオリンというものをいかに少ない作業時間で作れるか追及したものです。日本の人にとってヴァイオリンは珍しいものなので創意工夫してこだわって作っていると考えるかもしれませんが、ヨーロッパの人にとってはただの日用品にすぎないので決められた寸法にてっとり早く作ることが教育されます。

あとは宣伝をうまくやって巨匠に仕立て上げればヴァイオリン職人は完成です。
科学者のふりをして「画期的に音をよくする方法を発明した」いうのもよくある手です。


それだとつまらないので私はもっとヴァイオリン作りを楽しんでしまいます。

それだけ合理的な現代のヴァイオリン製作のセオリーなのですが、古い楽器を見ていると本当に面白いものです。今の時代から考えるとなんでこんなに無駄なものを作ったのか不思議です。

その時代に考え得る最も合理的なものだったのでしょう。


ニスについては昔の人は普通に塗っていただけですが、古くなったことによって雰囲気が変わっています。ニスをはがして新品のように塗り直すなどという修理はしません。イギリスなどでは早い時期からアンティーク塗装が行われたようです。もちろん高価な楽器に見せかけて騙す目的もあったでしょうが、趣を楽しむという側面もあったでしょう。

普通にニスを塗るだけなら1週間くらいの仕事の量ですがアンティーク塗装ならその4~5倍はかかるでしょう。それでもアンティーク塗装では通常300年くらいかかるところをひと月くらいで仕上げてしまうわけですから驚異的なスピードです。

普通にムラなくフルバーニッシュとしてニスを塗るのも初心者にはとんでもなく難しいものです。これができる職人が何%いるでしょうか?
それに比べて桁違いに難しいのがアンティーク塗装です。

フルバーニッシュがうまくできないのでアンティーク塗装に逃げるのがほとんどです。
そのためそのようなものはただ汚いだけのものになるのです。

楽観的な職人はそれで良しとしていますからそのような楽器を見ることはよくあります。チェロでアンティーク塗装は望まれるのですが、あまりにも手間がかかりすぎるので私が納得するレベルのものは商業上は成立しません。

これは前回紹介したマルクノイキルヒェンのヴァイオリンです。
このようなものはリアリティとは全く縁のないもので、「アンティーク塗装をされたモダン楽器」としか見えません。オールド楽器には全く見えないのです。ガルネリウスのラベルがあっても我々は「もしかして本物?」と思うことは絶対にありえないし、「良くできた複製」とも考えません。


アンティーク塗装は自然の風景画家が山に入って何年も写生を繰り返してようやくできるようなもので、絵描き歌のレベルでは絶対にうまくできないのです。絵描き歌レベルのアンティーク塗装をよく見ます。「♪オールドヴァイオリンがあったとさ…♪あっという間にアンティーク塗装」と完成すればいいですね。

最初はフルバーニッシュの塗り方を応用して塗る回数で色に濃淡をつけたり、傷をつけたり剥がしてみたり…そんなことをするのですが全然古く見えないのです。10年以上やっていると初めから全く違う塗り方になります。というのはオールドヴァイオリンの場合、オリジナルのニスはほとんど残っていないのが普通だからです。

90年くらい前に作られたそのような楽器を見ると100年くらい前の楽器に見えます。



基本的にオリジナルニス、汚れ、木の色、修理のニス・・・それらをすべて再現しなくてはいけません。汚れというのはとても重要で古い楽器のニスの色は汚れが決定的な影響を与えていると考えていいでしょう。

オリジナルのニスが残っている部分は特に汚れがたまっているところなのでその色を見てニスの色を考えてもダメです。赤茶色をしているのならオレンジ色のニスに汚れがついて赤く見えているのです。オールド楽器で赤いニスをしていたら新品の頃は毒々しいオレンジ色だったと考えたほうが良いです。ヤドクガエルのようなオレンジ色です。楽器商が「燃えるような赤いニス」とかカッコよく言うのを聞くと笑ってしまいます。

たった一色のニスを塗れば終わりのフルバーニッシュよりはるかに難しいことがお分かりでしょうか?わざとらしく汚いだけの中途半端なものならフルバーニッシュのほうがましだと思います。そう考えると簡単では許されなくなるのです。

エッジを丸くする

エッジを丸くするのは古い楽器の趣は表現するためです。20世紀にはサンドペーパーを多用する時代があったのでうってつけのスタイルです。サンドペーパーは刃物で作ったシャープなエッジをつぶしてしまいます。刃物で正確に加工するのは大変に難しいものなので角を甘くした作風なら短時間で作れます。ミラノの流派で行われ、ガリンベルティもまさにそうです。この人もクレモナの20世紀のスタイルの元になった一人でしょう。

この手法はチェコのボヘミアでも多く行われたため、ボヘミアの楽器とイタリアの楽器は似ているところがあります。イタリアの職人が特に腕が良いわけではないので一見見分けがつきにくいものがあります。ボヘミアの楽器にはいくつか特徴があるので私にはわかりますが、楽器自体の出来は変わらないというのが職人としての正直な感想です。音は個々の楽器と演奏者の好みによるとしか言えません。

これに対して19世紀のフランスの楽器はエッジをキリッと加工の正確さを競い合ったものです。
イタリアでもトリノの流派ではこの影響があります。今でもヴァイオリン製作コンクールではこのような作風が主流です。

ところがこれを再現してみると思いのほか美しくないのです。
実はフランスの19世紀の楽器も150年くらい経っていることによって美しさを増しているのです。100年くらい前でほとんど使われていない奇跡的な状態のものでさえ完全な新品とは印象が違うのです。



このような人為的にエッジを丸くしたものはすべてが均一に丸くなっているので本当の古い楽器と違うことはすぐにわかります。古い楽器では傷みやすいところとそうでないところがあるのです。アンティーク塗装を見破るわかりやすい特徴はそこです。場所によって摩耗の仕方が異なるのです。

とはいえ古い楽器を再現するからと言って修理が必要な状態にしてしまってはダメですね。
理想的な保存状態のものを作ります。




この時点でもすでに木に色がついていますからニスの仕事はずっと前から始まっています。改めてみると板目板というのは独特の風合いがあります。形もアマティも流儀を残しつつも独自のものになっていると言えるでしょう。このような繊細さはデルジェズになると無視されます。それでも基本があるのでただの粗悪品とは違ってクレモナ派の楽器なのです。かすかに残るクレモナ派の感じが私にとっては興味のある部分です。デルジェズのコピーの多くは一見してすぐに「現代風の楽器だな」と思うものが多いのです。



摩耗の仕方が理想的すぎますが、いずれ本当に摩耗していくことでしょう。

スクロールの印象がまた変わります。

昔はアゴ当てがなかったのであごが当たるところは摩耗しています。夏目の柔らかいところが凹んでいて他のところとは逆になります。

1週間

プロなら一週間あれば普通のフルバーニッシュなら仕上げの手前まではいくでしょうが、アンティーク塗装では始めたばかりです。

1週間でこんな感じです。だいぶ雰囲気が出てきました。ディティールを見てみましょう。

先ほどのザクセンのアンティーク塗装とは全く違うことが分かるでしょうか?300年も経った楽器ではオリジナルニスと剥がれ落ちたところの境界があいまいになっていることが多いです。ニスの質や使われ方にもよりますがコレクションではなく演奏に使われていた楽器ならこのようになっているほうが普通です。特に高いアーチの楽器ではアーチ表面が丸いので圧力がかかりやすくニスがこすれやすいのです。それに対して周辺部は深くへこんでいるのでニスが残り、汚れがたまるのです。周辺部分にニスが残るのが高いアーチの楽器の特徴です。これを応用すれば平面の写真でもニスからアーチを推測できます。


まだまだです。

表もまだまだ始めたばかりです。表板は松脂が付着しそこに汚れがくっつきます。さらに指板、駒、弦、テールピースなどがじゃまで掃除しにくいので他の部分よりずっと汚くなります。

ディティールを見てみるとベタ塗ではなく細かく色の濃いところと薄いところがあるのです。このように明るいところを残すのがポイントです。ニスは塗り重ねるほど色が濃くなっていきます。ベタ塗ではすべてが濃くなっていってしまうのです。いかに明るいところを残すかというのが勝負です。

裏板も同様です。古い楽器ではニスの表面には数えきれないほどの打撃が加わっていて、そこにまた汚れが詰まっています。ニスは風化しボロボロと剥がれ落ちたり、擦れて薄くなったりしています。そのためニスがベタ塗になっていると雰囲気が出ないのです。打撃を受けてニスもろともわずかに凹んだところがこすれると周辺が明るくなります。くぼみにはニスが残るのでニスが点在するように見えることもあるのです。

ヴィヨームの頃にはストラディバリも150年くらいしか経っていないので今見るモダン楽器のような状態です。ヴィヨームのようなフランスのアンティーク塗装の手法は現在のオールドヴァイオリンの姿ではないのです。したがってこのような手法を使ってもリアリティが出ません。

1週間の時点ではまだベースを作ったにすぎません。
わざとらしくニスをはがしたり傷をつけたり汚れを付けたりしなくてもこの時点でかなり雰囲気が出せています。この程度のアンティーク塗装のまま仕上げても雰囲気のいい風合いの新品の楽器として出せます。古く見えるツボを押さえているので自然に見えます。

さらに1週間

100年を1週間で表現するという困難な作業です。理論上不可能です。手間暇をかけるほど当然リアリティで有利になります。ただあまりにもゆっくりだと強いコントラストが出せないので出来上がっていきません。しかし濃い色を一気に塗ると絵のように筆のタッチが残ってしまいます。


コントラストが強まりました。とても濃い部分ができました。しかしいかにも塗ったという感じがしないようにしなくてはいけません。

細かいところの完成度が上がってきました。気の遠くなるような作業です。



だいぶできてきました。

表は劇的に古くなったように見えます。

全体に色が濃くなってきましたがやはり明るいところが偏在しているのがポイントです。ベタ塗なら真っ黒になるだけです。

アンティーク塗装で難しいのは明るいところをいかに残すかということと、その色合いです。これが鮮やかな黄色なら自然な感じが出ません。わざとらしく感じさせないのが難しいです。濃い色にするのは簡単で、難しいのは明るいところなのです。楽観的な職人はそのことに無頓着です。


…簡単といってもその色調はとても難しいものです。ザクセンの楽器では黒や茶色の人工染料を使うためいかにもザクセンという感じになります。汚れの色も吟味したものを肉眼で見ながら使い分けています。今回も何色か新しいものをテストしました。顔料の場合には日光のような強い光が当たった時に反射して灰色っぽく見えます。実際のほこり汚れもそうです。光りすぎるとおかしいし漆黒で光らないとおかしいのです。染料は透明度が高いためそうなりません・・・・キリが無いですね。

あと1週間

既にいい感じになってきましたがさらに完成度を上げていきましょう。

うっすらと汚れのような色のニスを塗った後それを研磨することで付着した汚れをクリーニングした様子が再現できます。実際に使用している楽器でもクリーニングですべての汚れを取ることはできません。くぼんでいるところに残ってしまうのです。裏板などはもう少しこれで古びた感じなるでしょう。
表はかなり黒いですから黒くなりすぎないようにしなくてはいけません。ピンポイントで正確に必要なところだけ色を付けていく必要があります。うっすらとフィルターのように的確な色を薄く塗ることで全体の色調バランスを調整することもできます。

エッジやペグボックスやf字孔の中などまだまだ塗り残しがあります。

その上で耐久性を確保するため保護用の無色透明のニスを塗ります。
これは実際の修理でも行われるものです。


最近本当の古い楽器を修理していたら「新しく作ったヴァイオリンですか?」と聞かれました。
一般の人には見分けがつかないようです。


完成画像は指板を付けてすべて完成してからにしましょう。
黒い部品が付くことによってまたコントラストが変わるのです。

何とか今月中には完成しそうです。
当初は来年の完成くらいと思っていましたが11月には試奏が可能になるでしょう。

次回お知らせします。