アマティ派のデルジェズコピーを作ろう【第9回】f字孔 | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

デルジェズのわかりやすい特徴はf字孔に現れています。
ガルネリモデルを見分けるにもわかりやすい特徴です。

詳しく見ていきましょう。






こんにちは、ガリッポです。

私はいつも、メーカーの国名で製品を判断するべきではないと言っています。
なぜかというと思っているよりもどの国にもたくさんの人が住んでいていろいろな人がいるからです。


そうです。ドイツの大手自動車メーカーでスキャンダルがありました。

弦楽器の業界で働いているせいで麻痺しているのかもしれませんが、不正は起きるのが普通という感覚でいるので特に驚くことではありませんでした。騙されて高い値段で楽器を買ってしまった人からはしょっちゅう相談を受けますし、同業者が逮捕されることもあります。

大したことのない製品を300万円だ500万円だと値段をつけるのも我々の業界ではいつものことです。

「ドイツの製品だから安心」と思っていた人は大きなショックを受けたことでしょう。
しかし、ヨーロッパに住んでいれば全く驚くことではありません。粗悪なドイツ製品なんて日常茶飯事だからです。

ブログの読者にはもういないと思いますが、弦楽器の世界ではイタリアのものが優れていると信じている人がいますが製造者によるとしか言いようがありません。フランスにもイギリスにもドイツにもチェコにもハンガリーにも素晴らしいヴァイオリンを作った職人はいますし、その逆もいます。中国人もクレモナで修業してイタリア人と同じものを作れる人はたくさんいます。また、それと同様に粗悪なものもすべての国で作られました。


弦楽器の業界、特にアクセサリー類はドイツメーカーの製品が中心を占めています。日本は他の楽器に比べると弦楽器に関する製品は少ないということで工業国ドイツの製品を買うことが多くなります。

私たちも常にドイツメーカーの製品の品質に満足しているわけではありません。むしろその逆であることが多くあります。

ドイツを代表する楽器メーカーはGEWAです。ゲヴァと読みます。
私たちはこのメーカーの製品が年ごとに悪くなっていると感じていますが、毎年新しいカタログが来るごとに値上げしています。ほとんどの製品はドイツでは製造しておらず中国などに切り替えています。かつては木材の産地、南ドイツのミッテンバルトの地場産業として楽器やアクセサリーが製造されていましたが、今はミッテンバルトから移転してしまいました。中国で製造しているので内陸の山奥のミッテンバルトに会社を置くメリットが無いのです。今は旧東ドイツのマルクノイキルヒェンの近くのアドルフというところにあります。実はゲヴァはもともとここが本拠地でした。「GEWA」の最後のAはAdorfの頭文字です。


中国の工場では弦楽器を知らない人が製造にあたっています。コントラバスのソフトケースを作るとき横板の高さをギターのものと間違えて大量に製造してしまったことがありました。
コントラバスを見たことがある人なら気付くはずですが、中国の工員は弦楽器の専門家ではないのです。

製品の質は毎年悪くなっていて値段は毎年高くなっています。我々は他の製造業者を求めています。他の製造業者のものを買ってみます。そうするとゲヴァよりもさらに品質の悪いものが山ほどあります。ドイツのメーカーでもです。メーカーはドイツでも工場がどこにあるのかわかりません。

ドイツのメーカーがドイツで製造しているからと言って品質が良いとは考えないほうが良いです。品質が良い製品を作っているメーカーのものは発注しても何年も納入が待たされます。
品質の悪いメーカーは大量に生産しているのでいつでも入手できます。値段がバカ高いだけで品質は中国のものと変わらなかったりします。


私は適度な値段で品質の良いものをいつも探しています。ドイツメーカーでも安くて粗悪なもの、高くて粗悪なものばかりです。それでも、それよりひどいものがたくさんあるため「使い物にはなる」ということでドイツメーカーのものを買っています。


かつてドイツでは弦楽器の大量生産が盛んでした。19世紀の終わり1880年くらいから大規模な大量生産が始まり、品質の良いものから悪いものまでさまざまなものが作られました。良いものは良いですよ。イタリア製の500万円のものより品質がずっと良いものがいくらでもあります。

戦後は東西に分断されたため東側になったマルクノイキルヒェンなどザクセン州は衰退しました。そこからブーベンロイトとミッテンバルトに移って行った人もいます。ミッテンバルトにもマルクノイキルヒェンの弦楽器業者と同じ苗字の職人がいました。

西ドイツでは戦後工業が発達し、弦楽器製造でも機械化によって合理化されました。
私が作風を見たときに一見アンティーク塗装で古く見えても、機械を使うようになった旧西ドイツの製品はすぐにわかります。日本でもおなじみのメーカーもありますね。

ただし大量生産品としては品質の良いものもありました。現在では低価格のものはすべて中国や東ヨーロッパの製品に押されて作られなくなり廃業した業者が多くあります。残っているのは比較的高品質なものというわけですが、歴史があるせいで大量生産の作風が強いために値段の割に高級感は感じません。技術指導がしっかりしているルーマニアや中国の製品のほうが品質が優れていることもあります。

ブーベンロイトやミッテンバルト大量生産の流派の職人はドイツでも各都市の個人の職人とは受けている教育も作風も異なります。ドイツの職人でもこれら産地以外の職人は大量生産の影響を受けていません。我々が文句の言いようのない素晴らしいマイスター作のヴァイオリンもあります。


このようにどこの国のものにも品質の良いものと粗悪なものがあるのです。頑固で品物の出来栄えに厳しい職人もいれば、お金になれば何でも良い人もいます。販売業者でも怪しげな業者はどこの国にもいます。


全く犯罪が無い国が無いように悪い業者がいない国はないのです。
国の名前を製品を買う判断材料にしないことです。



私は大学で企業倫理について専門的に勉強しました。
様々な事例を学びましたから「大企業だから不正が行われない」などという先入観もありません。企業が大きくなればが働く人が多くなるので聖人君子ばかりを集めるのは不可能です。個人企業や小さな会社なら働く人の倫理観のバラつきは大きくなるでしょう。規模が小さいほどとても良心的な業者と悪質な業者の差は激しくなるでしょう。それに比べれば大きな会社は平均的であるというだけです。社内にどのような仕組みを作ろうと経営者が心がけようとも不正を完全に防ぐのは難しいのです。


今回のVWの不正は素人はもちろん自動車整備士でも気付かないレベルのものでしょう。消費者や販売業者が見抜くことはできず、販売店も買ってしまった人も運が悪かったとしか言えません。検査する仕組みがあったのに問題が起きたからです。

私は以前に職人の質を資格試験によって評価することはできないとお話ししました。
マイスター試験で有名なドイツは試験社会です。何かにつけて試験が行われます。試験がものを言う社会ですからその社会で生きていくには試験をうまく乗り切ることが処世術ということもできます。

ドイツ人のヴァイオリン職人でマイスターの肩書を持っていながらとんでもなく幼稚な楽器を作る職人はいくらでもいます。彼らは試験に合格することだけが目標で楽器作りを学んだのです。
このような考え方をする人は本当に多いです。私のように良い楽器を作るために勉強している人なんて少数派で頭がおかしい部類に入ります。

日本でも勉強するために大学を目指すのではなく、「出身大学名」を求める人が主流です。大学の講義にいかに出席せず卒業に必要な単位を取得するか努力しています。勉強を努力するのではありません。全く同じことです。

試験がものを言う社会なら試験に合格するためには手段を選びません。それが今回のスキャンダルの温床ではないかと思います。



私は正義や善悪とは一歩距離を置いて快楽主義を主張しています。
快楽主義というのは人間主義ということもできます。ルネサンスの人間主義として紹介しました。人間というのはだらしなくどうしようもないものだという考え方です。外国でも日本でも犯罪やルール違反がゼロになる日は永遠に来ません。連日テレビのニュースで犯罪者を非難していても変わらないのです。警察官を何万人増員しても今度は警察官が不正を起こしてしまいます。人間とはそういうものなのです。

もちろん犯罪や不正は許されないものです。
しかし私たちが毎日豊かに生活していくのに悪者を責めたてることに人生の貴重な時間を費やすのはもったいないです。

少なくとも私はこのようなことに時間を費やすよりも素晴らしい楽器を作ること、楽器について理解を深めることを楽しんでいきたいと思っています。




私の同僚はメルセデスベンツの1970年頃のディーゼル車を持っています。お父さんが若いころに買ったものだそうです。さぞかし家族の思い出が詰まっていることでしょう。何か素敵ですね。もちろん現在の環境基準に違反しています。このような車に乗ることは環境汚染を引き起こす悪いことです。
月に数回しか動かすことはなく毎日何十キロも通勤しているわけではありません。彼は普段の生活には自転車やオートバイを使っています。古い車を整備するのは完全に趣味なのです。
次々と新しい自動車に買い替えることは製造時に多くのエネルギーと資源を必要とします。古いものを大事にするというのは彼のポリシーでなんでも大事に使います。

皆が皆このような自動車に乗っていたら深刻な環境汚染を引き起こすでしょう。人が楽しみを持って生きていくことは善悪だけでは語れないものです。




弦楽器は手入れをすることで何百年も使用することができます。
ところが100年も経ったヴァイオリンでは50万円くらいの修理代が必要になることはざらです。チェロになると100万円を超えることもあります。粗悪な楽器ではこの修理代を払う値打ちがありません。

弦楽器の製造は森林を破壊します。もし環境破壊をなくすのが正しいのなら、私は弦楽器の製造をやめるべきです。演奏者も弦楽器の演奏は止めてください。


私はこのように森林を破壊する悪行をしています。
それでも作る数は少ないですし、買った人には孫の孫の代まで使えるようなものにしているつもりです。古い楽器を大事にしている人には修理によって応援します。
数万円の中国製の楽器を買うことはお勧めしません。演奏できる状態に調整したり弦や弓の毛を交換する値打ちもないからです。買ったあとすぐに捨てなくてはいけません。森の木を捨てているだけです。ヨーロッパへ船で輸送するにはディーゼル燃料も必要になります。一台一台の楽器ははした金ですが全く演奏に使えないものでも大量に生産されれば工場の経営者は膨大な売り上げを手にするでしょう。


私が弦楽器の美しさに魅了され、美しい楽器を作ることを楽しみ、納得のいくまで手間暇をかけて作るというこんな悪行を行って生きているのです。

私に悪人を責める資格も善人を語る資格もありません。ずる賢い私は快楽主義を主張しているのです。
美しい楽器を作るためなら、私は聖人君子である必要はないと考えています。会社は株式を一般に公開して大きくなると社会に対する影響力が大きくなるので批判は大きくなります。得られる利益が大きくなるほどと求められる責任も大きくなるのです。
私はひっそりばれないようにド悪人として森を破壊し不当なダンピング価格で美しい楽器を心行くまで作っていきたいです。






さあデルジェズのf字孔です。
デルジェズも品質の良い楽器を作らなかったという点では悪質な業者ですね。
彼なりには真面目にやっていたのかもしれませんし、よくわかりません。晩年にはひどいものがあります。大量生産品よりも品質が悪いものがあるのです。

善悪なんて考えていたらヴァイオリンを理解することは無理なのです。
そもそも民衆から搾取した富によって弦楽器文化は発展してきたのです。メチャクチャなのです。弦楽器業界はメチャクチャなのでユーザーは「善人」ではカモにされるだけです。皆さん気を付けて弦楽器のある生活を勝ち取っていってください。


プロとしてデビューして成功するのを夢見て音楽を勉強するという人も多いかもしれません。素晴らしい音楽を演奏できれば偉い人に認められてプロデュースしてもらえる・・・・。そんなことはないですよね。誰が見ず知らずの他人を成功させようとするでしょうか?CDの売り上げランキングを見てください、音楽の能力順になっているでしょうか?

ヴァイオリン製作の世界も同じです。素晴らしいヴァイオリンを作った職人が高く評価されて店頭に並んでいるわけではないのです。楽器販売業者は「これは高く売れる」という臭いにとても敏感です。いかに素晴らしい楽器でもネームバリューが無いものには目もくれません。

逆に消費者はそのような楽器を求めることで安く格上の楽器が買えるのです。ぜひ営業マンの言うことを真面目に聞く優等生にならないように強くなってください。


あとは良心的な業者に出会えるかどうか、それは運でしかありません。
アドバイスとしては欲に目がくらむと物事が見えなくなります。「世界的に評価が高い」とか「画期的に音が良い」とかそういうものに踊らされず、じっくりと「普通だけとちょっとと違う」その違いを分かるようになっていただけたらなと思います。

世界一の楽器をなぜ凡人に買うことができるのでしょうか考えてみてください。
そんなチャンス回ってきませんよ。その楽器が世界一なんていうのはデタラメなのです。


デルジェズのf字孔

デルジェズのf字孔はとても個性的で特に晩年にはいかにもというものになります。他人の空似ということで全く関係ない流派にも似ているものがありますから、奇抜な発想というわけでもなさそうです。

アマティやストラディバリに比べるとやはり自由で適当に作っていたという感じがします。職人として感じるのはアマティやストラディバリのf字孔を加工する途中のものがデルジェズのf字孔のように思えます。アマティやストラディバリの型のf字孔を加工している初めのうちは皆デルジェズのf字孔に似ています。そこからストラディバリになりアマティになっていくです。

つまり未完成の状態で完成としてしまったのがデルジェズのf字孔ということです。

それでも全くアマティやストラディバリの未完成品ということでもありません。アマティやストラディバリはf字孔の位置をコンパスなどで作図していたと思われます。それに対してデルジェズンは見た目の感覚で「この辺だろ」としていたようです。デルジェズのコピーを作るうえで困るのはストップの位置がバラバラだということです。

ストラディバリであれば作図によってf字孔の上と下の丸の位置を決めていたと考えられています。その間を簡単な型紙を当てて大体の形を決めてあとはフリーハンドで形を作っていたようです。この方法だと先に丸の位置が決まっているので無理につじつまを合わせるので何となく窮屈になります。

それに対してデルジェズの晩年のものは何の制約もなく自由にのびのびと形を作っていたように見えます。デルジェズは作風を確立して20年間くらいしかヴァイオリンを作っていないのですが
本当に自由なのは最後の5年間くらいですね。それ以外はそれほどメチャクチャということもないです。


デルジェズのf字孔に最も影響を与えたのはカルロ・ベルゴンツィではないかと思います。ベルゴンツィはストラディバリのもとで修業しデルジェズの父ジュゼッペ・グァルネリ(通称フィリウスアンドレア)のもとでも働いています。デルジェズの兄のピエトロとデルジェズで作風が異なっているのはこのことが原因ではないかと考えています。

いずれにしてもベルゴンツィの影響でストラディバリの影響を間接的に受けたということができます。また近所に住んでいましたから直接ストラディバリ本人から影響を受けたことも考えられます。それでもストラディバリと寸分違わぬヴァイオリンを作るような性格ではなかったのでしょう。

そして、何台も作るうちに徐々にデルジェズの独自な形になっていったのでしょう。

一説にはブレシア派のマジーニなどを研究したという説もありますが、ストラディバリから段階を経て最後に独特なスタイルになっているように思えます。

ちなみに兄のピエトロは明らかにアマティの雰囲気を残しています。デルジェズの父のジュゼッペもやはりアマティのスタイルが強く感じられます。最後のほうはデルジェズに似ている時期もあります。これはベルゴンツィやデルジェズの手が入った楽器なのかもしれません。


加工します



まずは型を作ります。

もちろん正確さが求められる作業です。デルジェズは適当に作ったとしてもコピーを作るには正確に作らなければいけません。

右側も作ります。通常ヴァイオリンの製作では反転すればいいので片方だけ作ればいいのですが、精巧なコピーを作る場合には右も左も両方作ります。正確さが求められる作業が続きます。

二つの型をあてがってみるとずいぶんと形が違います。アドリブで作っていたということです。現代の優秀な作者ならここまで違いはないでしょう。


位置を決めます。この楽器の場合はストップの位置がほぼ標準の位置にあるというとても珍しいものでした。それでも左右の位置がずれていました。また、f字の横棒にあたる刻みの位置がf字孔の上下の中間から少し下にずれていました。このあたりも目の感覚で決めていたんでしょうね。いずれにしても現代の標準になるように多少ずらしました。この楽器の場合には本当にわずかなものでした。楽器の印象はほとんど変わらないでしょう。

写真を見ながら傾きを合わせます。正面から見て左のほうが斜めになっていて右のほうが縦になっています。


アマティ型のビオラの時にも説明しましたが、特に高めのアーチの場合斜面にf字孔を開けるので型を写真からとった場合には誤差が大きくなります。この線の通りに加工するのではなく多少修正が必要です。前にも言いましたがこれがとても難しいです。


糸鋸で切ります。

徐々に広げていきます。


表板のアーチの高さは一番高いところで17mmあります。現代の標準が15㎜くらいですからかなり高い方です。フランスのリュポーなんて13㎜くらいしかありませんでした。それでも「うわ~高いな!」と思うのは20mmとかです。それくらいでも音が良い楽器はあります。17mmなんてのは全然問題ないです。

音響上は問題なくてもf字孔の加工では大変です。fの上部外側をラインを超えなくてはいけません。内側は少し残す必要があります。両方難しいですが特に難しいのは内側です。今回の表板はとんでもなく年輪の硬い材質でした。すぐにナイフの刃がダメになって切れ味が落ちてしまうのです。厄介な木でした。

こんな感じになりました

珍しくかなりうまくいったと思います。

1734年の楽器で1740年代の晩年のものに比べるとおとなしいものです。ガルネリモデルということを強調する場合もっと極端なものも見られます。この楽器では控えめにデルジェズのスタイルを表現するのが私の趣向です。

左側です。こんな感じとしか言いようがありません。

右側です。オリジナルは魂柱を入れる作業でグチャグチャに傷ついています。それでも高価な楽器ですからましな方ですかね?とんでもない扱いをする職人がいるものです。
グチャグチャになる前を予想して仕上げます。

カメラの位置が左右にずれるとアーチが斜めになっているので形が違って見えます。画像で見るのと実物が少し違うようにも見えます。カメラ写りのようなものですね。

まとめ

この楽器は1734年のもので左側のf字孔の上端と下端の一番長いところの距離は75mmで、次の年に作られたものは73.5mmとなっています。厳密に型を用いて作っていたわけではなさそうです。

1739年のものは70mm、40年のものは73mm、41年のものは71mm、42年のものは76.5mm、43年は78mm、79mmとかなり大きくなると思いきやまた別のものは74mm、44年は77mm、82mm、81mmと最晩年のものは巨大化しています。

極端にf字孔が巨大化するのは最後の数年ということになります。理由は分かりません。


わずか数ミリと思うかもしれませんが、82mmのものなんてf字孔がものすごく大きく見えます。
というわけでデルジェズというのは全くデタラメというのでもなくしかし、毎回寸分違わぬものを作ったというわけでもありません。

特徴を大げさに表現したければ最晩年のもののコピーを作るのが面白いです。しかし今回のコンセプトはさりげないコピーを目指しています。同じデルジェズのコピーでも作る人によって趣味の違いというのはできるものです。



次回はアマティ型ビオラのヘッド~スクロールです。
そのあとはデルジェズのスクロールということになります。
しかしデルジェズのスクロールは本人が作っていません。父親のジュゼッペが作ったものです。ジュゼッペのスクロールはアマティの影響が強いものです。ストラディバリよりもアマティの特徴を持っています。

このような関係はとても面白いところです。父の死後はスクロールの作風がガラッと変わります。したがってデルジェズのコピーはいったん終了して今度はジュゼッペ・グァルネリ・フィリウス・アンドレアのコピーに切り替わります。

その前にアマティですよ。アマティを研究することがいかに大事かということですね。