気楽にストラディバリを味わう【第7回】ストラディバリの造形美 理論編 | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

「弦楽器は音さえよければ何でも良い」というのも正しい意見ですが、ストラディバリウスが貴族や職人たちを魅了してきたのは造形の美しさによるところが大きいでしょう。大事にされてきたことで音が良くなったということもあるわけです。

西洋の美意識、ストラディバリの時代の美意識について、「美の心」を知ることで、よりその美しさが感じて楽しめたらなと思います。



▽ 気楽にストラディバリを味わう ▽

ブラインドテストで低い評価を受けるのがしばしばのストラディバリウス。
「そんなもの研究しても意味ないじゃん?」と頭の良い人は指摘するでしょう。
そう固いことを言わず、何億円もかけずにストラディバリを味わって楽しんではいかかでしょうか?




こんにちは、ヨーロッパの弦楽器店で働いているガリッポです。

いつも読んでくださっている方には、私が評価の高いものに対して鬼のように厳しいことはおなじみかもしれません。過小評価されている職人や作品に対する愛情が故だと理解していただきたいです。

そんな私でさえもストラディバリの造形の美しさには魅了され心がときめいてしまいます。

もちろん別の作者には別の魅力があるわけですが、今回はストラディバリについて美意識の観点から考えていきます。


ストラディバリウスの美しさについて語るとき、前提となる美意識について知る必要があります。中学生の時にミケランジェロ作『ダビデ』の名前を暗記させられました。名前を覚えた以外はチンプンカンプンでしたし気にもしませんでした。おそらく先生も分かっていないのではなかったでしょうか?

これがチンプンカンプンならストラディバリウスを見てもチンプンカンプンです。なぜなら同じ美意識の土台があるからです。

1.古代ギリシアの美

ヨーロッパの美意識について語られる場合すべての前提になるのが古代ギリシアの美意識です。歴史の中で忘れられてはよみがえり、忘れられてはよみがえり、否定されても、根底に残っていたりと何度も登場してくるものです。

日本が文明開化し、西洋文明を取り入れたときにはすでにこねくり回されたり、否定されたりしていましたし、軍国主義の時代で重厚長大なものが好まれたりしました。また多くの現代の日本人はポップカルチャーのような若者文化に親しんで育ち「世界ふしぎ発見!」でたまにみるくらいでギリシアの文化などは何の縁もなく暮らしているかもしれません。マコト君の珍解答のほうに意識が行ってしまうかもしれませんね。(海外在住につきネタが古くてすいません)

先日ウィーンの美術史美術館に行って古代の彫刻を見てきました。
この像をご覧ください、普通の人は「リアルに人間が彫ってあるね、大昔なのにすごいね」くらいにしか思わないかもしれません。

でもよく見てください、こんな人現実に存在しますか?
服装とかそういうことではなくて、この世のものとは思えない汚れのない得も言われぬ美しさを感じませんか?

もっとリアルさを追求した作品では汚さを感じます。時として汚いほうが迫力があって強く訴えるわけですが、この彫刻にはそのような汚さはありません。

この美しさの源は決して仕上げの丁寧さや完全さにあるのではありません。

各部の大きさ、長さ、肉付きのバランスの良さから醸し出されるのです。

「プロポーション」とか「調和」とか言葉では聞いたことがあるのですが、心にしっかり止まらずに通り過ぎているかもしれません。

このような調和の美こそギリシアの美意識です。
これに対して暴走族が自動車を改造するときにバランスを無視して極端な姿にしていますが、正反対とでもいいましょうか?調和の美はパッと見ただけでは相手を圧倒する迫力はないかもしれませんが、文化が洗練されていた社会で尊ばれてきた美意識です。

ストラディバリにもそのような美が感じられると思います。

2.ルネサンス

ギリシアは文化美術なんかに熱中していたせいか軍事力でローマ帝国に征服されてしまいました。ところがおもしろいことにギリシアの文化はローマ人を魅了してしまいました。ギリシア人を奴隷にして優れた文化を教えさせました。奴隷を先生として慕うローマ人の柔軟さにも感心させられます。身分や地位が下の人を先生として学ぶなんてできますか?我々の業界でも弟子に学ぶ師匠や楽器店の社長なんて謙虚な人そうそういないですよ、普通は偉そうにしてしまいます。皆さんの職場ではどうでしょうか?。ギリシアは軍事力でローマに征服されましたが、文化でローマ人の心を征服したということです。

その後ヨーロッパでは1000年くらいの間ギリシア・ローマの文化は忘れ去られていました。ところがイタリアでローマの遺跡が発掘され「なんだこれは?!!」さぞかし驚いたことでしょう。

素晴らしい古代の文化芸術をよみがえらせようとする運動をルネサンスと言います。ここで先ほどのミケランジェロのダビデに加え、レオナルド・ダ・ビンチ、ラファエロの話になるわけですが、作品を見ても「写実的でうまいね」と思ってしまうわけです。しかし、そうではなくてやっぱりこの世のものとは思えない汚れのない美しさのほうが重要なのです。もっと写実的に描けば描けるのに目指したものは美しさです。



私が大好きなこんなコテコテのイタリア・ルネサンスの胸像もリアルさよりも美しさに重きが置かれています。それに加えて生きた人間のような「人間味」の表現もこの時期の芸術には欠かせない要素です。近所の兄ちゃんや赤ちゃんが聖書の人物や天使の姿になって現れています。

それでも大前提は、聖なる人物を汚れない美しさで表現しているところではないでしょうか。


弦楽器の話に戻すと、現代の弦楽器の基礎を築いたアンドレア・アマティが育ったのがこのような時代でした。アンドレア・アマティの楽器には絵が描かれていたり、彫像が取り付けてあったりしました。密接な関係があったということになります。


絵が描かれたアンドレア・アマティのチェロはこちらをご覧ください。
http://orgs.usd.edu/nmm/Cellos/Amati/Amaticello.html

こういう時代に基礎が築かれたので、弦楽器がただの道具として合理的なものにならなかったのです。私もいつも弦楽器や修理の値段が高いことに気の毒に思っていますが、こういう時代に設計されてしまったからです。せっかくなんでその魅力を味わってみてください。大手の楽器メーカーには部品をネジで交換できるようなそういう製品を作ってほしいものです。まあ、サイレントバイオリンなんかも壊れたらおしまいで使い捨てでしょうから、そのような製品にはなると思いますが。

3.バロック

ストラディバリが生まれ育った文化的なバックグラウンドでもあり、弦楽器が普及しクラシック音楽の基礎が築かれた時代でもありました。

宗教改革のあらしが吹き荒れ教会の豪華な装飾、彫刻、絵画などがやり玉に挙げられました。
これに対してローマのカトリック教会は、トレント公会議で美術作品はこういう風にしようと取り決めました。これがバロックの精神を決定づけるものです。
現代に芸術家のイメージとだいぶ違うと思います。偉いさんが作風を会議で決めたんですよ。
偉いさんが決定権を持っているという点ではむしろ現代と同じなのかもしれません・・・。


つまり質素で地味で、より信仰心をかきたてる芸術の力を積極的に利用しようと考えました。シンプルで強く訴えかけるというのがバロック芸術の特徴です。音楽でも前期バロックの作品はシンプルなのに強く訴えかける力があります。

それと同時期に貴族たちの間で宮廷文化が花開いていました。ここでは質素でシンプルなんでどこにってしまったのかわからないくらい豪華絢爛なロココ様式になっていきます。ハイドンやモーツァルトの時代ですね。

本来のバロックではシンプルでダイナミックな迫力のある、オーバーアクションな表現が特徴です。古楽器の演奏でもこれまでの優雅な貴族趣味ではなく、力強いダイナミックな表現でセンセーションを引き起こしたのも記憶に新しいですね。

それと同時に相変わらず古代ギリシャの教養は尊ばれていました。ギリシア彫刻をベースにした作品も作られましたし、音楽でも正式なオペラのオペラ・セーリアはギリシア神話を題材にしています。


ストラディバリ

弦楽器職人がみなそうである必要はありませんが、ストラディバリはおそらく画家や彫刻家になっていても一人前だったと思います。1681年に製作したハープには子供の像が彫られていて、チェロの装飾も絵心にあふれる人物が描かれています。もともと木彫り職人、彫刻家の修行をしていたという説もあります、弦楽器業界だけに信憑性は分かりません。

ストラディバリには美術家としての才能があり、弦楽器というカテゴリーでは才能のうちのわずかしか表現できていないのかもしれません。このため、ただ単に演奏するための道具を作っても、形を作り出す中に美意識がこぼれ出てしまっているのだと思います。
これが私たちがストラディバリウスを美しく思う要因ではないでしょうか。

これは加工が正確だとか仕上げが丁寧だとかそういうこととは次元が異なる話です。





これは私がバロックの美意識を学ぶために描いたものです。
よくデッサンというものをやるものですが、それは立体感をどうとらえているかを見るためのものでしかなく美の心なんて誰も気にしていないようです。「画力がある」ということに説得力があると言うんですが、まあ汚いものですよ。あと、私は職人なので形を緻密にはっきりさせてしまいます、ぼやっと雰囲気を出したりしません。

どういう風に描いたらギリシア的な美しさが出たり出なかったりするのか、自分で試行錯誤しながら描いてみるとその秘密がわかってきます。
体全体のプロポーションはもちろん顔、腕や足を単体で見てもそれぞれ美しいです。
さらに体の傾き、体重のかかり方、下から見上が得るような角度も難しいです。
それから布や羽の動いているようなダイナミック感もバロック特有です。

音が良い楽器を作るのにこのような造形センスは必要ないと言えば必要ないです。
ただ、ストラディバリなどの複製を作る場合には必須の能力になります。
いくら「ストラディバリの秘密を解明した」と豪語しても形を作れなければ楽器はできません。
ストラディバリとは関係なく現代的な自分の作風の楽器を作るしかできません。



さてどうだったでしょうか?
このあたりのことを語りだすと止まらなくなってしまいます。
興味のある人は美術史や人文学などを勉強してみてください、プラトンの哲学には美についての理論があります。単に美しいものが好きだったという次元ではなく、理論で説明されています。


ちょっと大げさでしたが、単に「バランスが良い」とだけ言っても全然通じないですし。
今もヴァイオリン製作学校の学生が夏休みで研修に来ていますが、加工を正確にするだけでも一苦労で注意がそこに集中して不恰好になってしまいます。これを教えるのはとても難しいです。美って感じるものですから。まあ、偉い職人でもわかっていない人もたくさんいるので、別に無理に理解しなきゃいけないというわけでもないですし。
私は情熱がわき上がってくるのを楽しんでいるだけですから。


それとストラディバリウスの美しさの源として忘れてはいけないのは古くなってパティナ(金属の錆びが語源で古びた様子)がついたことです。これも魅力を何倍にもしています。ほとんど新品の状態で保存されている1716年作の「メシア」も状態の良さには驚かされるものの、美しさについてはがっかりさせられるものです。

同じ造形の楽器でもニスの塗り方をアンティーク調にすると全然人の反応が違います。
「アンティーク塗装は邪道だ」という人もいますが、私は「人生楽しんだもの勝ち」だと考えているので模型を作っているようなもので作るのも楽しいし、買っていただいた方も楽しめるしということで、「そんな理屈知るか!!」てなもんです。

今回理論について書いていますが、理論が先にあるのではなく感覚で「感じる」ことが先にあって、理論で後から説明していって強固なものにしていくことが重要だと思います。逆に言えば「美しいと感じる」ことや「音が良い」と実感できることに何にも役に立たない理論などはいくら偉い職人が言っていたとしても科学者や数学者が主張しても従う必要はありません。美しいと実感できるものを作るのに役立つのならプラトンの哲学のように現代の科学から見ればメチャクチャでもいいのです。

ミケランジェロは身体の比率を定規で測るのではなくむしろ頭が大きすぎたりバランスが目茶苦茶だったりしますが、それでも人知を超えた美しさを生み出します。「定規は手に持つのではなく、目に持て!!」と言いました。

研修生に「寸法は何ミリにしたらいいのか?」と聞かれると「大体見た感じでちょうどいいくらいにしておけばいい」と言うのですが、自分も学生の頃そんなことを言われたらどうしていいか困り果てていたところです。



大変まじめな話になりますが、日本人が西洋の芸術文化を見るときには特に知らなければいけないことがあると思います。
彼らは意識していませんが現代の日用品にさえヨーロッパの製品にはヨーロッパ人の美意識が基礎として染みついていると思います。逆にそういう基礎を持たない日本の文化が彼らには新鮮に見えているのかもしれません。


次回は後編として、実際に楽器を作る過程で、ギリシア的な美しさを作り出す方法を製造技術の面から考えていきます。