技術者から見ると作風の共通点、特に若い時の作風が師匠に似ていなければ、「怪しいな。」と感じます。
▽ 気楽にストラディバリを味わう ▽
ブラインドテストで低い評価を受けるのがしばしばのストラディバリウス。「そんなもの研究しても意味ないじゃん?」と頭の良い人は指摘するでしょう。
そう固いことを言わず、何億円もかけずにストラディバリを味わって楽しんではいかかでしょうか?
こんにちは、ヨーロッパの弦楽器店で働いているガリッポです。
私は技術者なので商人の考えることは理解できないことがよくあります。
以前にも触れたエピソードですが、弦楽器に関する知識というのがどういうものなのかもう一度振り返ってみましょう。
18世紀ベネチアで活躍したドメニコ・モンタニアーナ(ca.1687-1750)という弦楽器職人がいました。楽器商は「モンタニアーナはストラディバリの弟子。」と言います。しかし、私の目にはどちらかというと若い時の作品はマテオ・ゴフリラー(1659-1742)に似ているように見えます。
多くの場合弦楽器職人に関する記録はほとんど残っておらず確かなことはよくわかりません。
モンタニアーナの楽器を売るときに「ストラディバリの弟子」と言うのと「ゴフリラーの弟子」と言うのでは聞こえ方がずいぶんと違ってきます。「金の臭い」に敏感な商人ははっきりわからないことでもさも事実であるかのように「ストラディバリの弟子」と言います。
確かにモンタニアーナのヴァイオリンにはストラディバリに似ているものがあります。しかし若い時の作品ではありません。当時ベネチアでは有名な作者の楽器を模倣した例がたびたび見られ、よく行われていたようです。
そうなるとモンタニアーナもストラディバリを真似して楽器を作ったのではないかと考えるほうが普通です。
このように、弦楽器職人の師弟関係については怪しげな説が多くあります。近年発行された専門書では否定されていたり、「○○は××の弟子」と全く書かれていないことがよくあります。それでも商人たちは相変わらず、商取引に有利な説を事実として語っています。
商人も騙そうとしているのではなく先輩からの教えをまじめに勉強しているだけのかもしれません。弦楽器についてまじめに勉強すると間違った知識を刷り込まれてしまうのです。下手に勉強するならしないほうがましです。
ストラディバリの師匠は誰かわからない
アントニオ・ストラディバリは1644年に生まれ、1737年に亡くなったとされています。実はストラディバリの師匠が誰かということも分かっていません。
長らくストラディバリはニコロ・アマティ(1596-1684)の弟子だと考えられていました(発音はニコラのほうが近いかもしれません)。その証拠は1666年のヴァイオリンのラベルに「ニコロ・アマティの弟子のアントニオ・ストラディバリ」と書いてあるそうです。ただラベルというのは我々の業界では偽造がつきもので、絶対的に信用することはできません。
ストラディバリのわかっている最も若い時の作品は1666年のものですが、これがアマティとそれほど似ていません。全く似ていないこともありませんし似ているところもあります。それに対してニコロ・アマティの息子ジローラモ(1649-1740の楽器はアマティ家の特徴がはっきりしています。ジローラモと兄弟弟子であるのなら、ストラディバリももっとアマティ家の特徴がはっきりしていれば弟子として信憑性が高まります。
私は楽器を見て弟子かもしれないし、弟子でないかもしれないと思っていました。しかしながら、クレモナのアマティ派の流派であることは言えそうです。
最近の専門書を見ると、ストラディバリの師匠がアマティだという説に異論があると記されていたり、「アマティではないクレモナ派の誰かの弟子」だと記されているものもあります。はっきりわからないのであれば、「誰かクレモナ派の職人の弟子」としかいういことはできません。私もこのブログで過去に「ストラディバリはアマティの弟子」と書きましたが実は意見が分かれているようです。
楽器商の中にはうかつな発言を平気でする人がいて私には理解できないのですが、あるニコロ・アマティのヴァイオリンについて「これはストラディバリの特徴がみられるので、おそらく弟子だったストラディバリが手掛けた楽器だろう。」と平気で言います。その特徴というのが、「アーチが平ら」だというのです。これは怪しいです、ニコロ・アマティもアーチの高さはいろいろあり、ストラディバリの生まれる前のニコロの父と叔父の時代にもすでに平らなアーチのヴァイオリンは作られていますし、ストラディバリは1700年以降の黄金期~晩年にも高いアーチの楽器をたびたび作っています。
平らなアーチはストラディバリの発明でもありませんし、固定したスタイルでもありません。もっとも初期のヴァイオリンのアーチはアマティのものより高く、弟子の時代から平らなアーチを作っていたかどうかも分かりません。
さらにひどいのは、ニコロ・アマティのヴァイオリンの表板が裏板と違い平らなアーチのものがついている楽器があった時、「この表板は後にストラディバリが修理して新しく作り直したものだ。」と説明を受けたことがあります。私は、イギリスの19世紀の楽器でこんな表板のものを見たことがあるように思います。イギリスかどうかはわかりませんが、19世紀以降の職人が取り付けた表板ではないかと思いました。
ここでも「ストラディバリの作った表板のついたアマティ」か「19世紀の表板がついたアマティ」かで聞こえがずいぶん違いますし値段も随分と違ってくるでしょう。
そもそも平らなアーチというのはストラディバリの特徴でもなく、19世紀以降の楽器製作の特徴です。可能性から言ったら、ストラディバリが作った表板だなんてどんだけ奇跡なんだ思います。
でもこういうことを平気で言ってしまうのが技術者の私には信じられません。木目を調べて何か証拠でもあったのならそうなんでしょうが・・・・
弦楽器の世界の知識なんていうのはこんなもんです。
当時クレモナにそんなに多くの職人もいなかったので皆アマティの流派ということで作風がある程度似ています。ストラディバリもその中のだれかに教わったということで、若い時の楽器のほうが傾向としてはアマティに似ていて、黄金期と呼ばれる1700年以降は自分のスタイルを確立したいうことは間違いないと思います。
ニコロ・アマティのヴァイオリンはこんな感じです。リンク先でご覧ください。
画像はこちらから
次に息子のジローラモ・アマティの手による1671年のニコロ・アマティです。(下の画像をクリックで拡大できます)
画像はこちらから
そしてアントニオストラディバリのもっとも初期の1666年のものですが、画像がなかなか見つかりませんがこちらをどうぞ。(ちょっとスクロールさせて画像をクリックして拡大)
画像はこちらから
どうでしょう?
このような画像では違いがよくわからないかもしれませんね。弟子かもしれないし弟子じゃないかもしれないということには同意していただけると思います。
ストラディバリの息子たち
ストラディバリは再婚し二人の妻の間に11人以上の子供をもうけました。そのうち家業のヴァイオリン職人を継いだのは長男フランチェスコ(1671-1743)とと二男のオモボノ(1679-1742)の二人だけだったと言われています。私も以前、オモボノ・ストラディバリのヴァイオリンを見たことがありますが、父アントニオの楽器とはずいぶん違っていてクオリティも低い物でした。当時、私は「オモボノはアントニオとは違って腕が良くなかったんだな。」と思いました。しかし、その後文献で別の年代のオモボノの作品を見ると、大変美しいもので同じ年代のアントニオと同じ特徴の楽器でした。
また、アントニオの晩年の楽器に先ほどのオモボノの作品とよく似たものがありました。その上でフランチェスコとオモボノの名前がついた楽器はとても少ないです。ということは、オモボノもアントニオと寸分違わぬ楽器を作っていて、アントニオの作品もオモボノやフランチェスコが代わりに作ったり手伝ったりしたのでしょう。
そうなると「アントニウス・ストラディバリウス」というのは個人の名前というよりは、屋号みたいなものです。
他の息子や嫁たちも何らかの形で家業を手伝っていたのかもしれません。というのは、当時は弦楽器に関する付属品、用品などはすべて手作りで作っていました。ヴァイオリン族以外の楽器、ケースや弓、弦もペグもすべて自分たちで作っていたようです。
確定しているストラディバリの弟子はベルゴンツィだけ
ストラディバリの弟子としてはっきり作風に共通点が見られるのはカルロ・ベルゴンツィ(1683-1747)のみとされています。楽器商はこのほかに多くの職人をストラディバリの弟子としています。冒頭でも紹介したように少しでも特徴が似ていればストラディバリの弟子にしてしまうという乱暴さです。
このうちマントヴァの職人はピエトロ・グァルネリI(1655-1720)の流派であることは間違いないでしょう。
このピエトロ・グァルネリはアマティ家の弟子のアンドレアの息子で、有名なデル・ジェズの叔父です。ピエトロはグァルネリ家で一番木工の腕が良く大変美しい楽器を作りました。ストラディバリと共通するのはアマティの流派で美しいということですが、ピエトロの楽器には独特な特徴があります。カミロ・カミッリ(ca.1704-1757)やトマソ・バレストリエリ(1750-1780)もとても美しく作られていますが、私が知っているものはみなピエトロ・グァルネリの影響が強い物でした。ただ美しいというだけで、ストラディバリの弟子としてしまうのは強引だと思います。バレストリエリは晩年にストラディバリを模した楽器を作ったそうです、ストラディバリが亡くなった後です。
ベネチアの人たちは冒頭で述べたように、いろいろな作者のまねをしているのでストラディバリに似ているものあれば別の作者に似ているものもあります。フランチェスコ・ゴベッティ(1674,75-1723)、サント・セラフィン(1699-1776)、ドメニコ・モンタニアーナ(ca.1687-1750)はいずれも関係ありません。
ナポリのガリアーノ家もストラディバリに似ているところから、ストラディバリの弟子としたいところですが、クレモナ出身の初代のアレッサンドロ(ca.1695-1735)の作風は全く似ておらず、2世代目以降がストラディバリに似ていることからするとこれも真似したということです。
当時ナポリやベネチアは音楽の最先端を行っていてとても盛んでした。陸路は山賊が出るなど治安が悪く距離も遠かったわけですが、船が主要な交通だったので、ナポリとベネチアでも音楽家の移動や交流がありポー川でクレモナから楽器が来てベネチアからニスの材料がもたらされたでしょぷう、セラフィンは楽器の製造だけでなく販売も手掛けていたそうです。
マティアス・アルバン(1634-1712)なども実際見ましたが、チロルの楽器ですね、クレモナ派の感じではありませんでした。
スピリト・ソルサーナ(1715-1740)も言われることがありますが、ジョフレド・カッパの影響が強いです。
グァダニーニ家も直接の弟子というほどの共通性は見られません、弟子とすれば初代ロレンツォ(1685-1746)になるのでしょうが、微妙です。
とにかくはっきりしているのはベルゴンツィだけということです。
そのベルゴンツィもストラディバリの忠実な複製ではなくその後作風が変わっていきます。
ストラディバリの作風を受け継いだ職人はいません。
まとめ
ストラディバリの師匠が誰なのかわかりません。若い時の作品がアマティに似ているとしても、アマティの代わりにアマティの楽器を作っていたと言うほどは同じではありません。ただ、独立後に作風を変えた可能性もあります。また、本人は同じものを作っているつもりでも少しずつ姿が変わっていくこともあります。ほんのちょっとの違いが見た目の印象に大きく左右することもあります。ともかく、1666年以前の楽器が見つからない限り、これは謎のままでしょう。
また、当時は家族共同で楽器を作ることが当たり前で、作者としてラベルに名前は出てきませんが奥さんや娘が手伝ったこともあり得る話です。
グァルネリ・デル・ジェズのヴァイオリンのスクロールを父のジュゼッペが作っていたのは有名です。ジュゼッペが亡くなった後はスクロールの形が明らかに変わっています。
こうなると、「スクロールの彫り方が音の違いに大きな影響を与え、音を計算して彫っていた。」などという考えがいかに頭がおかしいかわかると思います。
そういう風に考えてしまうのは肩に力が入りすぎですよ。そのように必死になると「感じる」ことができなくなって美や価値も分からなくなってしまいます。
もっと気楽に楽しみましょう。
さて次回は、ストラディバリの作風の変化について見ていきたいと思います。
ここでも「現代人の常識」がいかに当てはまらないか思い知ることになりますよ。
ノーガードでカルチャーショックを食らってみてください。
お楽しみに。