弦楽器の知識 超基礎編【第6回】独創性って大事なの? 「職人の仕事」の魅力について | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

私たちは日頃から、「・・・はパクリだ」とか「独創性がない・・・」と何かを批判しています。
しかしこのような「作者の独創性を重んじる」という考え方はわりと最近のもので、500年の歴史を持つ弦楽器については当てはまりません。

売られているヴァイオリン族の弦楽器は皆同じような姿をしています。
現実として独創的な試みによって作られた楽器はゲテモノとして売り物にならないのです。

現代では「芸術家」と「工業製品」という二つの常識が出来上がっていますが、弦楽器の価値について説明するには「職人のクラフトマンシップ」という忘れ去られた考え方を用いなくてはいけません。


こんにちは、ガリッポです。

これまでも私の記事を読んでくれた方にはお分かりかと思いますが、私はとんでもない職人気質です。
一般に広まっている弦楽器の知識は私とは相いれない「商人気質」の人たちによって形成されてきたのが納得いかないわけです。
商人気質の人なら「そんなこと相手も喜んで、お金にもなるんだからいいじゃないか?」というようなことでも、職人気質の人ではモノに異常なまでに執着するために「本当に良い物か?」ということにこだわってしまいます。

この職人と商人の仲違いはどこでも起きていて商人が金にモノを言わせてしまいますが、クラシック音楽の歴史の浅い国ほど商人が力を持っているようです。

芸術家の概念

芸術家と言えば「独創的な作品をつくるのもの」と常識になっていますが、これは近代の考え方にすぎません。
我々職人が400年後も使える弦楽器を作るのにこのような一時的な考え方は当てになりません。

1.新古典主義
フランス人がストラディバリを理想のヴァイオリンとして選んだように現代のヴァイオリン族の弦楽器の常識のほとんどが19世紀のフランスで作られたということは前回説明しました。

この時代、ヨーロッパとくにフランスでは新古典主義という考え方が主流でした。
そもそも芸術というのは、頭で考える理屈ではなく心で感じる純粋な感情の表現と思っている人がいるようですが、ヨーロッパでは言論で討論して作風を決定することが行われてきました。
音楽は比較的、教会のセレモニーやパーティーの出し物やBGMとして発達したために美術ほど理屈っぽくないですが・・

例えばバロック芸術というのは、ローマのカトリック教会が宗教改革に対抗するため、教会の幹部を集めた会議によって作風を決定しました。
それに基づいて画家や音楽家が発注を受けて作品を作ったわけです。

フランスの新古典主義はアカデミー会員の組織によって、作風やテーマが画一的に決められていました。
弦楽器製作と共通するところでいうと、「過去の偉大な作品の欠点を直して非の打ちどころのないさらに完全なものにする」という考え方でした。

ルーブル美術館でミロのビーナスや、ダ・ビンチの『モナ・リザ』が有名なのは、この考え方でお手本とするべき過去の偉大な作品だったからです。
ちょうど弦楽器でこれにあたるのがアントニオ・ストラディバリだということになります。

2.ロマン主義から近代・現代美術へ
これに対してロマン主義の哲学は個人の感情や体験などを重視した考え方で、のちに印象派としてアカデミーと敵対し反抗的な精神の現代芸術を生み出す基盤となりました。
ここでも理屈が先にあるのです。

現在でも公の建前では、この考え方が新古典主義を打ち破ったままですね。
しかし、個人レベルでは「お手本通りにうまく描く」という新古典主義に近い考え方の人も多いと思います。

弦楽器では近現代美術のような革命運動は起きませんでした。
弦楽器の演奏でも多くの人はお手本として楽譜通りうまく弾くことを、自分で作曲することよりも重視しています。
コンサートを聴きに来るお客さんも前衛的な作品よりも過去の名曲を聴きたいという人のほうが多いですね。

クラフトマンシップという考え方

そもそも楽器はとても高価ではありますが、それ自体は作品ではなく作品を作るための材料にすぎません。

私は楽器製作者が芸術家のようにふるまうのは出すぎた行為だと思っています。

ヴァイオリンの創成期はルネサンスからバロックの時代になりますが、まるで芸術家個人が神のように扱われるようになった近代や現代と違い、人間は神と動物の中間だと考えられていました。
画家も神のような芸術家と違いただの労働者の「職人」でした。
その中で特に際立った技量をもった人は「アルティスタ」と呼ばれました。

楽器はそれ自体は音楽作品の構成要素にすぎませんから、際立った技量を発揮する機会もありません。
つまり「職人」であってそれ以上にはなりようがありません。

そうなると職人は芸術家より一段落ちる存在のように思えますが、そこに魅力はないのでしょうか?


私は職人の仕事には大いに魅力があると思っています。
もちろん道具として機能すれば何でも良いというのなら、安価な大量生産品の楽器の中から音が良いものをさがせば高価な楽器なんて必要ないでしょう。

商人気質の人のように、人によって全く分からない人もいるこの価値を「クラフトマンシップ」という言葉で説明できると思います。
クラフトマンシップは日本語に訳しにくいですが

良いものを作ろうという熱意によって高められた技能
またその技能によって生み出された美しさ

このような意味でしょう。

私は技術者ですから、根性論は好みません。
それでも「他の何にも差し置いて美しいものを作りたい」という熱意と、それを実際に形にできる高度な技能の両方がクラフトマンシップには必要だと思います。

それっぽいものを素早く作って自画自賛している職人もいますが、そのようなことは賃金の安い中国に任せておけば良いのです。


つまり、職人の魅力というのは、現代の芸術家と違って独創的なものを作るのではなく、ありふれたものでも高い技能で美しく仕上げることにあります。

演奏家の場合でも、現在では決まった曲をうまく演奏する職人芸が大事にされてることと同じことですよ。


楽器の値段は、知名度によって決まるので流派として有名であれば、個人としては技能が低くても高い値段が付きます。
しかし有名な演奏者が使ったなど例外的に有名になった人を除けば、一般的には同じ時代の同じ流派内では、「クラフトマンシップ」の高さによって評価(=値段)が決まっていると言えるので無視できません。

大量生産品とハンドメイド品

前回1850年ころから近代的な大量生産が始まったと説明しました。

私が大学で経済史を勉強していた時のことを思い出しながら大量生産と手工品の違いを説明します。

大量生産
当時の大量生産品は「問屋制家内工業」に近いものです。
弦楽器の産地ではそれぞれの家で部品ごとに作って納めたものを工場で組み立てて完成させました。
したがって、一人の人が作るのは一つの部品だけということになります。
場合によっては、冬の間農業ができないときに部品を作って納めるということもあったでしょう。
この人たちは特定の部品しか作ったことがなく、一台の楽器を完成させたこともないということになります。
渦巻きの部分は難しいため、専門の「渦巻き」職人がいました。
現在はコンピュータ制御の機械で加工できるため1980年代には廃業したようです。

現在では機械でかなりの部分が加工できるようになったので工場内で作ったり、部品を作っている工場から買ったりしているようです。

それでも完全なオートメーションには至らず、フェラーリやロールスロイスのような高級車並に人の手を使って作っていると思います。

手工品・マスターメイド
生産形態でいうと「家内制手工業」になります。
それぞれの家で、一人ですべて作ったり、家族や弟子などとともに合作のように作ったりします。
アントニオ・ストラディバリはかなりの数の楽器を作りましたが、二人の息子の力を借りていたと思われます。
息子たちの名前の楽器が少ないからです。
グァルネリ・デル・ジェズは父親が生きていた時代までは父親がスクロールを作っていました。

このように必ずしも一人の人によって作られたとは限りませんが、家族や弟子など身近な人物だけで楽器を作るものです。

粗悪な大量生産品

大量生産品はクラフトマンシップのなさから粗悪な楽器が大量に作られました。

中には大量生産でも腕の良い職人を集め比較的品質の良いものを作った場合もあります。

しかし、安価な大量生産品の多くは、楽器の構造を理解せず粗悪なものが作られました。
音の面でも仕上がりの面でも問題の多いものが多いです。
それもそのはずで、先の説明のように一台の楽器を作ったことがない別々の人が、「百個作っていくら」のような形で部品を作ったものを寄せ集めたわけですからクラフトマンシップなんてあるわけがありません。

現在では機械を使って作るので工場の技術部門の責任者がクラフトマンシップと専門知識を持っていれば、量産品としては品質も良く、音響的にもそれほど問題のないものが作れると思います。


大量生産品の問題は
1.品質の悪さ
2.音響的な問題
3.クラフトマンシップのなさ

なぜ品質が悪くなったり、音響的な問題が生じるかといえば、安くして大量に売ることで儲けるという事業モデルなので、短時間で作るほどコストが安くなるからです。

高いクラフトマンシップを持っている人は一種の「変態」のような人種です。
組織が大きくなればなるほど、彼らの声は小さくなりクラフトマンシップは他のことより軽視されるようになっていきます。

品質の良い製品を作っていた会社が大きくなると製品の品質が落ちてしまったという例は山ほどありますね。

ハンドメイドの品物に価値があるのはこのクラフトマンシップにあります。
したがって、ハンドメイドでも品質の悪いものに私は価値があるとは思いません。

もちろん作者に知名度があれば、経済的には価値があると言えるでしょう。
ただ、職人たちは大量生産より劣るハンドメイドの駄作を有名な作者の作品と信じて有難がっている人を陰で笑っているかもしれません。

音の個性

作り方をいろいろ変えても、その人のベースになっている製作法や癖によってその人の楽器には共通する特徴があると思います。
古くなって、熟成やダメージの受け方に差が出るとわかりにくくなっていくとは思いまずが、新しい楽器なら「その人の音」というのはあると思います。

ただし、必ずしも楽器の製作者は自分のイメージした通りの音の楽器を作ることができないし、多くの場合挑戦すらしていないということは超基礎編の第2回で説明しました。

本人が意図した音が出せなくてもその音を気に入る人がいるし、逆に自分の理想の音を出すのに成功しても気に入る人がいない場合もあります。

したがって好き嫌いはあれども構造に大きな問題が無ければすでに「良い楽器」になります。
さらに、優れたクラフトマンシップで作られていれば高級なハンドメイド品として安価な量産品とは区別されるでしょう。
もしハンドメイドでも粗悪であれば、よほど有名な作者で鑑定書付きではない限り安価な量産品と見分けがつかなくなってしまいます(高価なのは楽器というより鑑定書の値段じゃないの?)。

安価な量産品の場合、大きな損傷を受けたり消耗する部分交換が必要になった時、楽器の値段より修理の値段のほうが高くなってしまいます。

こうなると、いわゆる『使い捨て』ということになります。

まとめ

大量生産品と違いマスターメードの楽器は「一人で作っているから個性があって価値がある」という説明では、個性に価値があることになってしまいます。

そうなると、何か個性的であることが良いことのように誤解してしまいます。


技術者から見ると大量生産品は品質が悪くクラフトマンシップに欠けるのが問題です。
そもそも安くたくさん売るという事業モデルなので希少性がなく安いのは当然です。

仮にハンドメイドの楽器で個性的であったとしても、品質が悪くクラフトマンシップに欠けていれば大量生産品と同じことです。

クラフトマンシップに価値を見いだせず、そんなものどうでもよいという人は、音だけで楽器を選べばよいでしょう。
強い自信を持った人が多いヨーロッパでは、「音が気に入った」ということで大量生産品を愛用している上級者の人もいます。


「匠が真剣に精魂込めて作ったもの」を使っているということが刺激になって演奏に真剣に向き合うことを促すことができれば職人として喜ばしいことです。