Twitter やFBではよく更新しているのですが、イベントごとが多くてゆったり区切りがつけられておらず、そんな時ってブログのように長い文章はなかなか各タイミングを逸してしまいますね。
それでもね、ちょっと「静」を感じられる時があって、自分の礎的なものごとを感じる。
最近はよく「生」と「死」を思います。
これは大それたことじゃなくて、状態としての生と死。
生の状態、死の状態。
なんで生死観じゃなくて死生観なのか。何故「死」が先にくるのか。
「死」という対象を認識しないと「生」である状態が分からないからなのね。
認知は相対的にしか出来ない。
無いことを知らなければ有る状態であると認識できないし、重い状態を知らなければ軽い状態も認識出来ない。
失って初めてその大切さに気づく、というのも同じ。
終わりがあると知って初めて物事はスタートする。
限られた時間と生の中で、マイペースにゆったりと壮絶に行くことが出来たらいいなと思う。
なんだかね、急激に命や魂をもっと具体的な感触として感じるようになって来たよ。
あ、今命が燃えている、とか魂の状態に近づいた、とか。
説明はしがたいが自分の中の感覚は磨がれ、削ぎ落され、コアに部分だけに近づいて行く感じ。
まだまだ早いが、もっと何十年もかけてそういうプロセスを辿って行きたいが、今の自分はとてもフラットで、ただ、その研ぎ澄まされた感覚さえも発見ではなく、状態の認識として受け入れているみたいだ。

赦し、に似てる。
あるがままに。あり得ないことなどあり得ない。全ては繋がって行く。
僕が伝えたいことはいつも同じなんだなと気づく。
歌詞を書いても、物語を作っても、身体で表現しても。
伝えたいことは多くない。シンプル。

だから僕は刀以外の武器に興味が無い。

刀はものではない。僕は魂と精神を振るいたい。
だから、刀すら持たなくても僕の表現は成立するんだ。


文章は海面の所々浮き出ている島のような飛び飛び文ですねw
こんなことを考えてますね。他にもまた徒然なるままに書いてみます。


よい宵を。