K君が高校生の時だ。それは学校の進路相談か何かの帰りに、母親とO駅から電車に乗る時のことだ。切符を買って改札を通り、ホームを歩いているとK君はココアの自動販売機があるのを見つけた。ホームをさらに十メートルほど歩いて母親が止まり、K君は一緒に立っていたが、電車にはまだしばらく間があったため、K君は母親に頼んで金をもらい紙コップ1杯のココアを買うことにした。

 左手には学生カバン、右肩にはショルダーバッグを掛けていたが、ココアを買いに行く前にそれを母親に持っていてくれと頼むこともせず、母親のほうもそれを持っていてやるからというでもなかった。左右に荷物を持ったまま歩いていくと、ショルダーを腰の後ろに回して小銭を販売機に入れてボタンを押し、釣り銭をとった。紙コップに注ぎ終わったココアを販売口から持ち上げる前には担ぎあげ直したものの、手を伸ばして少し前かがみになった際にショルダーは若干肩からずれ落ちそうになった。そのまま右手に釣銭とココアを持ち、なんとかショルダーを肩から落とさないように運んできたが、ちょうど母親のいるところまでの半分ほど戻った時にとうとうショルダーのストラップが右肩から肘にすとんと落ちてしまった。ココアを持っている手の肘が大きく揺れたため、かなりの量のココアが手にこぼれ、飛び上がるほど熱かったが、両手がふさがっているためこぼれたココアをすぐに手から振り払うこともできず、あわてて歩けばさらにこぼれそうだったため肘に重いショルダーを下げながら腰をかがめてあと5メートルほどを歩き、母親のところに戻った。

 一部始終を見ていた母親は熱そうにしているK君のところに走り寄るでもなく、表情も変えずにもといた位置にそのまま立ち、あたかも自分とは無関係な他人の状況を観察しているかのようだった。K君が戻ってくると母親は無言のまま、ハンカチを差し出し、K君はココアの紙コップを母親に持ってもらいハンカチを受け取ると袖口や太ももの辺やショルダーを拭いた。この時K君が気にしたことはただ服やショルダーを汚してしまったことと、ハンカチを汚してしまうということだった。

 

 こういったことはK君の家では普通の風景なので、その時は別段不思議に思うことはなかった。むしろハンカチを差し出した母親のやさしさを感じていたくらいだ。それがなぜだかそれとは全く別の違和感が忘れることを拒否させたかのように、K君の心にずっと鮮やかに記憶され、折に触れて蘇ってきた。

 あとで気がついてみればその違和感とは、自分の失敗をじっと見つめる冷たい他者の視線だった。それは無機質で、表情を失った温かみのない視線である。目の前で生じた他者の失敗について是とも非とも言わない、手をさしのべようとする気配はまるでなく、冷徹に分析することにのみ徹した視線である。飼育箱に入れられた昆虫が、その昆虫にとってはあたりまえの試行錯誤をなすのを、この行動は遠回りだの不合理だの、箱の外から観察され評価されているような感覚である。ココアがこぼれてどんなに熱くても顔をしかめるだけで、母親に視線を向けるでもなく、声も出そうとしなかったのは、この視線と交流することが不可能なことをK君は知っていたからだった。

 

 多くの日常的な危険は、共感的なやりとりをする中で回避することができるものだ。「荷物はここに置いていきな」「そうだね。持っていってもしょうがないね」といったやり取りが普通に行われるだけでよいのだが、機能不全家族にはこれがないのだ。ココアをこぼした時にも「大丈夫!」と言って駆け寄り、「熱かったでしょう」「服も汚れちゃったねえ」「また洗えばいいね」などという会話がなされることが大切なのだ。自然な会話を通じて自分はコミュニティの一員であり、保護される対象であるという安心感を得ることが誰にとっても必要であり、それが未成年であればなおさらである。

 この安心感がないと人生は孤独でサバイバルなものとなり、何事もすべて事前に予測して対処しなければならない、そしてその知識や能力を備えなくてはならない、何か失敗すればすべて自分だけがその責を負うのだという思いを抱くようなものになっていく。社会の中でなんとかみんなと支え合いながら生きていける筈の人生が、ひとつ手をすべらせればたちまち岸壁の底に叩きつけられるのではないかというような、まるで困難な予感に満ちた代物になってしまう。