K君が高校2年生の時だった。家の電話が鳴り母親が出てから、「お前にだと」というので替わると、男性の声で新しい勉強の仕方について紹介する会があるので来ないかという。無料で誰でも聞ける会であり、同級生もたくさん参加しているという。K君は自分で決めた参考書を中心に勉強しており、塾やほかの教材などだったら興味がなかったが、自己学習のやり方だというので聞くだけ聞いてみるかと思い、母親に許可を求めた。
K君:勉強の仕方を教える会があるというからちょっと聞いてきてみてもいい? T高の人たちも行くって。
母親:聞くだけならいいさ。
K君は自宅から4kmほど離れた指定会場に自転車でいくと、40歳前後の男が「K君ですか」と声を掛けてきた。
小部屋に案内されるとほかに人はなく、「会」だと言っていたのに様子が違うなと思った。
男は受験生におすすめの新しい教材の紹介だといってテキストを見せ、聞いてみると通信教育の勧誘だった。興味をもてなかったK君は「時間を損した」と思い、勧誘を断り帰ってきた。
家にはK君が出かけるときにはいなかった父親が帰ってきており、K君の自転車の音が聞こえると玄関から飛び出してきて、「何をやっているんだ!」とすごんでいきなりK君を殴りつけた。
K君は驚き「なんだよ」と声を上げると、父親は「お前は騙されたんだってな!」という。
実はK君が出かけてから母親が、これは教材の勧誘かもしれないと気づいて、K君が勝手に契約書にサインして来はしないかと不安になり、帰宅した父親に状況を伝えたのである。それを受けて父親は、実際に契約してきてしまったかどうかも確かめないままいきなりK君を殴ったのだった。
「騙されてなんかないよ。教材の販売だったので断って帰ってきたんだよ。勝手に契約なんかするわけないよ」と言うと、父親は出かけて行っただけでも騙されたというなのだという。話にのって契約してしまったのならそうだろうが、K君は断って帰ったのである。話を聞きに行くだけでも騙されたことになるという一方的な論理は、先に殴ってしまって分が悪い父親の勝手な決めつけに過ぎない。しかも母親は出かけることを許可しているのであり、出かけるだけでもすなわち騙されたということなら、母親も同様に騙されたというになるではないか。
父親:「なんでそんなのに行ったんだ!」
K君:「お母さんがいいと言ったから行ったんだよ! じゃあ親がいいと言っても実際にはダメなことがあるんだな!」
父親:「そうだ。」
K君:「じゃあお母さんのいうことは信用できないということだね! お母さんがいいと言ったのに本当はだめなことがあるんだからね!こっちは許可されたから行ったのに何で僕がおこられるんだ。」
どう見てもK君に分がある。何でも自分のほうが悪いと考えて済ませてしまう癖は相変わらずあったが、論理的に明らかにつじつまの合わないことには反論するくらいにK君は成長していた。
しかし父親にとっては論理的に正しいかどうかが問題なのではなく、とにかく家に君臨する母親が絶対なのであり、自分は手下になってその指示を息子に守らせるのが役割なのである。
母親:「お前に親の気持ちがわかるか!親はどんなにお前のことを考えているか!」
論破され反論できなくなった父親に代って母親が入ってきた。
自分のためを考えてなのだと言われるとやはりK君は黙ってしまう。それを知っていて母親はさらにK君の弱点を突き追い打ちを仕掛けてくる。
母親:「もうお前のことなんか構わねえからな! もう義務教育じゃあねえんだから学校なんて行くな! お前なんかどっかへいっちまえ。もう親のやることは終わったから自分で食ってげ! 今後お前のことはいっさい構わねえから!」
(子どもたちは一人で生きてゆけないために監禁状態に置かれる―心的外傷と回復・J.L.ハーマン―)
実は両親が心配しているのはK君ではなく、もしK君が教材の契約をしてしまったら金を払わなくてはならなくなるのでそれを心配しているのだ。契約によって損害を被るのはK君ではないわけだから、K君のことを心配してというのは嘘である。第一心配しているならその相手を殴るわけがない。
一般の家庭であれば、「言葉巧みに誘い出すんだね。いつの間にか契約させられないように気をつけなくっちゃね」などと話しあうのが普通だろう。K君の家では母親はいつでも支配を強化するきっかけを探しており、父親は常にその配下の者として行動した。
明らかに両親の側に誤りがありながら、そしてそれを両親側が自覚している場合でさえも、全面的にK君のほうが悪いと決めつけられて悔しい思いをすることは日常茶飯事だった*。そのなかでも、特にこの教材勧誘の一件は支配者である母親、協力者である父親の思考と行動のパターンが典型的に表れた一件であり、K君は今でも鮮明に記憶している。
*たとえば富士登山の時金剛杖を父親が万引きしたことでも、K君がそれを話題に挙げると、母親はそんなことをあげつらうK君のほうが悪いとあくまでK君を責めた。