虐待や過剰な管理が行われている家庭では支配者の論理がすべてに優先される。
支配者は君臨し、被支配者は服従するといった上下関係の確認が常に行われているため、一般家庭におけるような情緒的、共感的な会話というものがない。

それは何気ない会話においてもすべてそうなのである。

小学生の時K君は、冬にマフラーをするのに首にひと巻きして片方の端を前に、もう片方を後ろに垂らして歩いてみたかった。みんなそうしているし、その方がかっこいいと思ったのである。母親に許されて見たテレビドラマの主人公の男の子もそうやって巻いていた。しかし母親はそんなことすら許さない。両方の側を首の前で一緒にひと縛りするのが賢そうな巻き方であり、自分の息子もそうしなければならないと信じ、こだわっていた。家から出るときにはK君に自分でマフラーを巻かせず、母親が自分で気に入ったように巻いてしまう。学校から帰ってきたK君のマフラーが自分のやらせた通りでないと途端に怒り出す。
「なあんでおめえは言ったとおりにしねえんだ! 親のいうこときかねえなんて人間のクズだ!」
「だってみんなもこうしてるもん」
「おめえはみんなと同じになりてえんか! 少しは人と違う人間になりたかねえんか!」
「・・・」
「恰好からしてダメな奴はだめなんだ! だめな連中と同じにしやがって。親をバカにしてやがる。」
「こっちのほうがいいと思ったんだもん」
「勝手に思うんじゃねえ、バカ!」

すべてがこの調子であり自然な会話というものがないから、こういう環境で育ったK君は大人になってからも普通の会話というものがどのようなものかがわからなかった。
「寒いねー。」「そうだねー。」「そのマフラーの巻き方かっこいいねー。」「そうかな。」「ちょっと教えてもらっていい?僕もそうやってみたいよ。」「いいよ。こうするんだよ。」
このように穏やかにキャッチボールをするような会話ができないのだ。自然で情緒的な会話ができないことは、K君が成長して友だちづきあい、恋愛のほか、広く社会的交流を行っていくうえで大きな障壁となった。

K君は物事にはすべて正解があり、あらかじめそのすべてを身に着けておかなければならないと思ってしまう。マフラーの巻き方ひとつにしても人がしていることを知らないのは自分の能力の不足、あるいは勉強不足であり、恥ずかしいことなんだと思ってしまう。恥ずかしいことだからそれを話題にしようとは思わないし、見てみないふりをして済ませてしまう。
会話はすべて自分の既に知っていることを話すことに留まるから、生き生きとしたやり取りに広がらず、知ったかぶりをしているようにも聞こえる。知識や見解ばかりの堅苦しい会話になり、相手も疲れてしまい互いに楽しくない。それがわかるからK君自身でも人との交流を避けるようになってゆく。

普通のことができないということほどつらいことはない。