教育虐待がどのようにして起きるかといえば、親が子供を通じて自己実現しようとするからである。虐待者は支配者であり、支配者は自分が優れているということを常に示そうとする。それは被支配者に対しても、自分と接する機会のあるすべての人間に対しても。
 
K君が小学1年の時、母親は雨が降るとK君にレインコートを着せて学校に遣った。制服というものはなく、ジャージやトレパンといった体操服を着ているので、その上からレインコートだけきちんとしたものを着てもちぐはぐに見える。ほかのみんなはそんなもの着ていない。それでもK君は1年生でよくわからないからそのまま母親のいうとおりのものを着ていった。母親からすればほかの家とは違うという意識があり、認められたいという思いがあった。担任のS先生から「K君は身なりがきちんとしている」と言われたこともあってK君の母親はますます得意になり、ゴムの長靴でなく、子供用のブーツまでそろえた。同級生たちはそもそも長靴すら履いていく人は少数で、ましてブーツなんか履くものはK君しかいない。それでも「うちの子はほかの子とは違わなければならない」という母親の強い思い込みは変わらなかった。
 
母親は時々K君に花をもたせて学校に遣った。最初は花瓶まで持たせて準備させた上である。だんだん上級生になるにつれ、男の子ということもあってK君はだんだん花など学校に持っていくのは恥ずかしくなってきたが、拒否すると激しい叱責に合うので仕方なく6年生まで花の持参は続いた。母親とすれば、自分の家の子はほかの子とは違う、教室に花を飾る心をもっているということを示したいのだ。実際にはK君は嫌がっているのだから、母親による見せかけに過ぎないのに。
 
授業参観の時、この種の嫌らしさは彼女から直接発せられることになる。
たとえば算数の時間であれば、お気に入りの万年筆とメモ紙を持参し、教室の後ろで自分も一緒に問題を解くのである。ほかのお母さんたちが自分の子は手をあげられるか、当てられたらきちんと答えられるかといったことで気をもんでいる中で、K君の母親だけ、あなたたちと違いそんなことが問題なんじゃないというように余裕をみせて自分自身で問題を解くのだ。当然ほかのお母さんたちから嫌に思われたに違いないが、本人は得意だったのだろう。