ΙΧΘΥΣ -イクトゥス-

イクトゥス集会の祈り

恵み豊かな神よ、あなたは、教会とキリスト者がすべての人の救いの証となり、キリストのわざを世の終わりまで伝えることを望まれました。わたしたちの集会 もあなたの望みにこたえることができますように、光と力を注いでください。福音に出会う恵みを与えられたわたしたちが、重荷と労苦を背負うすべての性的少数者の仲間とともに、キリストから与えられた喜びと希望を分かち合い、あなたに向かって歩んでいくことができますように。
わたしたちの主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン。
先日は百人隊長(マタイ8)の僕の癒し物語を読みました。

ポイントとなるのは
『イエスに直接会っていない僕におよんだイエスの(神の)ちから』と
『異邦人である百人隊長の信仰(他宗教であろうとなんであろうと信頼をもって歩みをおこした、ということ)に感銘をうけ称賛をおしまないイエスの姿』の二点です。

ユ ダヤを通して「教会により」全世界へと神の福音と救いが広がってゆくというマタイの発想は非常に両義的であり、たとえばイスラエル優位の立場から百人隊長の謙遜とされる態度を問題にすると、ユダヤもしくは今日的に言うところの「教会」に連なる必要性があるのだが、イエスの言動や姿勢からそれを見た時、その必要性は必ずしも重要ではない。確かに招きにどう応えるかは百人隊長の問題なのであるが、イエスは百人隊長を肯定し、その上賞賛し、『行きなさい、信じたように(信頼して歩みをおこしたように)なるように』という言葉で彼を送り返す。これはユダヤ人共同体でも今日的な「教会」共同体への参加を条件付けるものではかならずしもない。

現代に生きるキリスト者である私たちの為すべき態度は何であろうか?
そのヒントは、教会や伝統、そして聖書を相対化することによって見えてくるように思う。会ったことのないイエスの言葉の力が百人隊長の僕に及んだように、私たちのうえにもおよび、既存の教会ではありのままの自分でいられないが故にダブルスタンダードにさせてします教会の姿勢を今ひとつひもとき、どう、このわたしが、ありのままの姿で、イエスの招きに応えて行くかを、また、様々な関係性のなかで生活の証をたてることを求めながら歩んでゆくことが求められているのではないだろうか。
さる2009年02月22日から翌23日の一泊で、札幌市内某公共施設を会場に、性的少数者クリスチャンのための黙想会が開催されました。
黙想会では祈りと講話を軸に、神との和解、自分自身との和解、そしてありのままの自分として神との一致の体験をめざしました。そして祈り・出会い・分かち合いをコンセプトに穏やかな沈黙の中、「始めの祈り」「晩祷」「寝る前の祈り」「朝の祈り」「閉会礼拝」これら五つの共同の祈りを中心に、個人黙想と黙想の手引きとなるための黙想指導、ロザリオやアングリカン・ロザリーなど信心業をつかったとりなしの祈り、東京より日本基督教団の牧師をお招きしての講話と交流など有意義な時間をすごすことができました。大きな問題なく祈りの集いを終えることができ関係者参加者と共に神に感謝したいと思います。はやくも「ぜひまた黙想会を!」との声もあり、年末クリスマス前には企画できたらと考えています。どうぞお祈り、ご参加ください。