家でも授業中にも僕は、あの瞬間のことばかり考えていた。
椋井さんの座った後ろ姿を見ていたら、つい無意識に人や物に寄り掛かかる自分の癖と相まって、気が付いたら胸に抱いていた願望を実行してしまっていた。
かと言って、女子にあんな風にハグをするのは記憶にある限り初めてだった。
きっと嫌な思いをさせたのに、彼女はすぐに何事も無かったかのような態度でいたことと、一瞬の椋井さんの髪のシャンプーの匂いとかが控え目で、そこにドキドキしたことが自分の中で気になって仕方がない。
それに、してはいけないことだったのに、全部が後悔という訳でない気持ちもある。処理しきれない想いでいっぱいだ。

 あの後、大人達は飲み会に参加する人らに別れた。
椋井さんも近くの店に参加組と一緒に歩いて行っていた。
それまで一度も僕の方は見てくれないというか、視線が合わないままで、僕は暗澹とした気持ちで家に帰った。

 春呼は見てないふりをしていると思う。
あえて自分は言うことでもないと思っているかも知れない。
というのも、侑斗は後で散々僕に、めちゃくちゃだなと言っていた。
侑斗から、すぐに聞いた蒼成にも、訴えられるレベルと呆れられる。
 話題にしないだけで、春呼にも英恵にも何をやってるのかと思われているはずだった。
あれからしばらく同じ日にバイトに入って無いけれど、椋井さんは僕のことを軽蔑したに違いないし、もう話してくれないかもしれない。
 ただ一つ思うことは、これから先は椋井さんを嫌な気持ちにさせる自分には絶対になりたくない。
この先どうなるか分からないけれど、本当に二度と、あんなことの無いようにすると自分の心に誓った。


 部活に行くと、基本的なトレーニングから散々絞られた。
体を動かすことは大好きなので、やり出したら集中していった。
僕が一年前に県大会で出した記録は、まだ破られてないので、どこか安心している気持ちを忘れるのに努めた。
蒼成は、今はもう部活に入ってないので僕の代わりにも、しっかりバイトに入っていた。
椋井さんのことを聞いても、これといって何も教えてくれない。
侑斗も同じ様子で、そんなに話にも出せない。
気は重いけれど、面と向かって椋井さんに謝ることだけ考えた。


 僕の進路も決めていく時期が近づいている。
妹は中学2年で、もう自分の進路をだいたい決めている。
母親と仲良く話を進めているし、順調に成績を伸ばしている。
よく出来た妹で良かったと思いながらも、その内、彼氏とか出来たら複雑な気分になりそうだと思ってしまう。
数ヶ月前、妹のことも心配だったので、両親の別居のとき一緒にアパートに移るとすぐ決めたものの、僕自身は本当は父親と居たかった気もする。
この前、家に行った時の、父親のやはり寂しそうな様子が頭から離れないでいた。
 連絡をして、次の日曜日にまた会いに行くと伝えた。
話の内容も考えてある。
父親の仕事は、日曜日の方が忙しいから滅多に行かないと思っていたけれど、夕方早めに時間を合わせてくれた。

 土曜日に久しぶりにバイトに入ると春呼が、二月までにはバイトを辞めると主任に言っていた。
 春呼の代わりになるため最近、入って来た英恵は、家庭の事情で進学しないらしい。
春呼は受験勉強に集中するために早めると言ったけれど、理由は他にもありそうに感じた。
 僕は春呼の事を幼なじみの友達として好きだけど、こんな時の気持ちは言葉に出来ない。
遠くに行って欲しくない存在であっても執着は無い。
男子にモテる綺麗な女子を絵に描いたような春呼が、彼氏を作らない理由も、わかっているようで、それほど興味が無いのが本当のところだった。
誰でも自分の好きなように生きて行けたらそれでいい。
僕の両親の離婚も、寂しさから抵抗する気持ちと、一人の人間として、妹と自分らに遠慮して欲しく無い気持ちの両方あって、今はこれで良かったと思っている。

  主任に聞くと、椋井さんは明日は朝からバイトに入るらしく、僕も部活の練習の後で、父親に会って早めの夕ご飯を食べてから、夕方から入るつもりでいた。
あのことを謝るのが先だけど、僕の椋井さんに対する気持ちは、はっきりさせる時がいつか来るし、それが近い内なのも確かだと思っている。
考えるほどに彼女の声を聞きたくて会いたくて、どうしようもなかった。
自分と椋井さんが現実的に不釣り合いでも、どうにかしてこちらを向いて欲しかった。
蒼成は大げさに悲しそうな顔をして言う。
「ちょっと現実を考えたら。新汰まだ高校生の子供で、全部が無理過ぎ」と。
この気持ちを、そんな理屈で割り切れるなら苦労は無い。
でも、蒼成の忠告を受けて、実のところ彼女のことを何も知らないのと同然な自分に気が付いた。

 バイト中もずっと、明日の夕方に会ったら、椋井さんに対する自分の言うべきこととかを頭の中で練習していた。
それに、聞きたいことと知りたいことが、次から次へと出てきた。