朝、いつもの時間に起きて職場に出勤する。
とは言え、今日は元旦なので産婦人科医院へ向かう途中ずっと静かで、いつもは混み合う主要道路は全く別物の景色だった。
こんな風に仕事に行く人の少ない日に働くのも私は嫌いでは無い。
一人の人間の産まれるのは一年中、日を選ぶことも無いのだから。
今年の元旦は主任と未希さんと公乃さんと薫さんと私が昼食作りと、主任が15時に帰って4人で夕食作りに就くことになっている。
主任は、早番の出勤時間より少し早く来て、入院産婦さんの朝食の準備を一人でこなして、いつもはパートさんがほとんどしてくれている後片付けも全て終わっていた。
主任は朝食の記録ノートを付けながら椅子に座っていて機嫌良く、私らは和やかに、お互い年始の挨拶をし合った。
主任は、昨日のうちから準備されているお節料理と、お雑煮の用意を希望のあった産婦さんの家族分なども合わせて12人前も用意した。
未希さんは、すかさず主任に
「それでも、お正月だからと朝は私達を休ませてくれて、一人での仕事は大変でしたよね」と、いつもの愛嬌ある笑顔で労っている。
昼食作りは朝とは違うお節料理少しと、それに合う和食で、各自メニュー担当を決めて、それぞれ作り出す。
早朝から一人仕事で、お疲れだろうと、ちゃんと主任に気を使いながら選ぶ運びになった。
自分は未希さんにメインの魚料理をゆずり、難なく七福膾を選んだ。
あまり作ったことのない膾で、更に七種類の具材はと、ちょっと戸惑いながら既存のレシピ通りに進めることにした。
「秋野主任、蓮根はこれくらいの大きさに切ったので大丈夫でしょうか」などと、一つ一つ聞き大量の野菜を切り刻みながら、何だかんだで自分が一番時間をかけてしまって、患者さん全員分の七福膾を完成させた。
主任にも確認の味見をしてもらい、彩豊かに無事に作り上げて、ホッとして配膳に出した。
しばらくして自分達の昼休憩になった。
「秋野主任ゆっくりして来て下さい」と、家が近くにあるので、ほぼいつも昼休憩は一旦帰る主任に声を掛け見送った未希さんは、くるりとこちらを向いた。
「…やってしまったのと違う?由夏さん。多分、秋野主任は絶対、自分で七福膾を作りたいから昨日からメニューに決めてたはずよ?」
私は未希さんの発言に目を丸くしながら、確かにいつもより無口な様子で、副主菜を担当していた秋野主任を思い出しながら言葉を返した。
「えー、そうだったら自分が作るって早く言って欲しい」と。
気を遣って損した気分の私は、もう疲れが押し寄せてきた。
少し含み笑いをしながら未希さんは、終わったことと慰めてくれた。
でも、これまでの未希さんならメニュー担当を決める時に、すかさず主任が作りたいか聞いてくれそうなものとも思った。
昼休憩から帰ってきた主任の機嫌は微妙で、彼女は午後三時過ぎに早番勤務が明けて帰るまで私とだけ、ほとんどしゃべってくれなかった。
まさかのことで、元旦からストレスがたまってしまった。
だいたい、こんな些細なことくらいで機嫌の悪くなる人と仕事をするのに嫌気がさしてきて、帰ってすぐ寝たい気持ちになった。
でも、今日は母親の実家に従兄弟の旭が帰郷しているので、この後久しぶりに母親と一緒に会いに行く。
旭は、大学生になって初めて彼女が出来たらしい。だからか、すぐ県外で一人暮らしをしているアパートへ帰るようだ。
小さな弟の突然死の後、当時10歳の私が代わりを求めるように可愛がってきた旭。
やはり会えるのは嬉しいので私は正月のお年玉も用意して、いそいそと出掛けた。
倉内さんとの初詣の約束をどうするか少し迷ったけれど、すでに断っていて旭と初詣に行くことにしていた。
彼が去年免許を取って以来、初めて車の助手席に乗せてもらうのが楽しみだった。
気を使うことの無い旭との初詣はとても楽しく、彼の成長を喜びながら、元旦が終わった。
明日は、早番なので早く寝るつもりが、 めずらしく蕾未ちゃんから連絡が来た。
彼女は風邪を引いたらしく熱がある様で、ボウリング場のバイトのシフトを代わって下さいと言って来た。
お正月から、かなり忙しくて大変だけど、しょうがないので引き受ける。
「お互い様だから、蕾未ちゃん気にしないでね」
と言って、病中見舞いを伝えた。
そういうことなので、明日の仕事は出来るだけ早く帰らせてもらおうと思った。
2日の日は、朝から葉月さんと一緒に仕事だった。
朝食を出した後、葉月さんにコーヒーを入れてあげて、昨日の彼氏とのデート話を聞いていた。
ちゃんと初詣も行ったらしく、幸せそうな表情の彼女だったが急に言いにくそうに、話題を変えて来た。
私に伝えておきたいことがあると言い、小さな声で、未希さんのことと言う。
「この前に薫さんが未希さんと少し問題あったと言ってたのって、実は由夏さんが、未希さんを裏切ってないか確かめたらしいです」
と、言って少し緊張した表情の彼女は、私の休みだった日に聞いた二人の会話で、察したらしい。
次も疑惑をかけられたら私がまずい立場になると、葉月さんは思い切って今日教えてくれた。
少し驚きながらも私は腑に落ちた。
あの時の薫さんは、いつもと様子が違うというか、おかしいと思いつつも私は気にしないふりをしていた。
未希さんは主任の次の年長者でも、私達の誰かに、ここの院長の従姉妹にあたる主任に告げ口されると困ることがある。
主任の仕事中のわがままに付き合うのも、疲労がたまるけれど、それより何より、未希さんの横領の手伝いを、当たり前のようにさせられて仕事を続けるのは不本意だった。
仕事を辞める理由。
それは人それぞれだろうけれど、小さな積み重ねでも横領は犯罪で…でも、彼女の言うことを聞かないと主任どころの嫌がらせではすまない。
何もかもが健全な職場など滅多に無いのは、知っている。
相手がいるのなら女性は結婚して、生活の全てを変えたくなるのは、こんなところだろう。純粋に仕事自体が厳しくて耐えられない人って少ないと思う。
他人には言えない人間関係や事情が様々ある。
それでも、私は母親と生きていくために全部を見ないようにしないと。
ただ葉月さんにこんな顔をさせる未希さんは、本当にひどい。
彼女は罪悪感が希薄で、彼女の夫もどうかしている。夫の実家は、幼稚園経営をしているそこそこ裕福な家庭で、それ目当てに無理矢理結婚を迫った未希さんは、付き合っていた頃のことを時折、楽しそうに話す。
夫が、というより夫の持っているものや、自分の言うことを何でも聞いてくれるところに執着しているといつも感じる。
それでいて、主任にも普段の私達にも愛嬌のある笑顔で接してくる人だった。
未希さんは、昼食の片付けが終わった後、退院する産婦さんの栄養指導に白衣を着て行った。
ここでは管理栄養士は彼女一人しかいないので、看護師長や祖河院長からも重用されている。
でも私達年下の皆が、裏側でも彼女の言うことに従う理由は、そこだけでは無い。
未希さんは5年前に待望の一人目の子供を流産し、本来この産婦人科で産む予定が、手術になってしまった過去があるから。
女性にとっての一番の悲しみではないかと思う経験をした彼女に同情しているからだった。
私が初めてその話を聞いた時は、もう過去のことと、悲しい顔をせずに言う未希さんの強さにに尊敬に似た気持ちを抱いた。
公乃さんは、その当時のことを知っているから一番の理解者のようだった。
主任も子供に対する愛情は深いので、未希さんの苦しみを誰よりもわかっていると思う。
私は葉月さんの優しい笑顔に癒されながら、どこか自分を騙してここに居続けている。
でも何より、私が10歳の夏の日、小さな赤ちゃんだった弟の督が亡くなった時の母親の姿を彼女に重ねている。
その悲しみが、消える日は来ないのだと知っている。
そして正しいことなんて、どうでもいい気持ちになってしまう。
早番を時間通りに明けると一度、バイトに入る前に休憩した。
最近ずっと気になっているのは、副店長は以前と違って私とは、ほとんど話をしてくれない。
最低限の会話だけして、さっさと作業室や奥の事務室などに行ってしまう。
副店長の奥さんが先日、受付に来て一緒に話をした時くらいから、まるで人が変わってしまったかの様に笑顔も無い。
それだけのことではあるけれど…
別に自分に落ち度は無いはずなのになどと少し考えながら、夕方のアミューズメント施設に入って行った。
フロアではバイトに入っている蒼成くんがいて、あっ、という感じで挨拶してくれた。
それも風邪の蕾未ちゃんと急にシフト交替したのを知らないからと思う。
私もニコリと挨拶を返す。
店内はとても賑わっていて、沢山の家族連れで埋まっている。
それでスタッフルームに入る前、何となく見渡した先に見つけた二人に驚いて足を止めた。
一番端のレーンの客席後方で春呼ちゃんに後ろから寄りかかり、腕を回してくっ付いているのは登崎くんで、じっとして動かない。
二人は誰が見ても恋人同士に見える。
私は、人前で何をしてるの…と思うより、今までに無かったような感情というか、自然と胸がきゅうとなって目を逸らした。