秋の始まりに夏を振り返る | 市川いずみオフィシャルブログ「いずみの広場 〜ストレートdiary〜」Powered by Ameba

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朝晩は幾分涼しくなりましたね♡

どうしてもみなさんに伝えたいなと思ったことがあるのでコラムを書いてみました。

まずは第1弾です。

最後まで読んでもらえると嬉しいです!

 

 

 

 

 

 夏の熱気が姿を消し、新チームの元気のよい声と共に秋がやってきた。少し髪の伸びた3年生がスタンドで後輩に声援を送る姿をみると彼らの夏を思い出した。

 

今年も7月から地方大会に出向き、素敵な球児・指導者に出会った。

甲子園だけが高校野球じゃない。

夢の形はそれぞれだった。

 

伝えきれなかった京都での夏の一部を紹介したい。

 

 

彼を思い出すと、必ずブルペンにいる姿が浮かんでくる。

投手ではない。

“ブルペン捕手”だ。

連日38℃近くの灼熱の京都。

うだるような暑さの中、キャッチャー道具を身にまとい投手陣をマウンドへ送り続けた。

 

東山高校の高木凌君(3年)は兵庫県出身。県内の高校から声もかかったが、祖父母が暮らす京都で高校野球生活を送ることにした。「兄が敗れた相手校に進学する気になれなかった」。2つ上の兄は関西学院の野球部で主力投手として活躍したが、甲子園へはたどり着かなかった。喧嘩や言い争いさえしたことのない仲のいい兄弟。いつもお兄ちゃんの背中をおいかけてきた。兄の学校を倒したところへはいけないというなんとも優しい理由で東山への進学を決めた。

 

いつも「あと少し」の野球人生だった。小学生の時にはタイガースジュニアに選ばれた経験もある。しかし公式戦での出場はなかった。中学でもメンバーには入るものの基本は代打での出場。ネクストバッターズサークルで試合終了を迎えることも多かった。親元を離れ、東山に入学すると2年春に初めて背番号をもらった。以降3年夏の最後の大会まで背番号を貰い続けたが、公式戦の出場は3年春のたった1イニングマスクを被っただけだった。

 

それでいていつも笑顔を絶やさない。「お疲れ様です!」とあいさつしてくれる元気よさも気持ちがいいものだ。試合に出られなくても自分ができることはどんなことでも全力でやる。高木君の行動はチームメイトももちろん認めていた。「ライバルのはずなのに何を聞いても教えてくれる優しい先輩です」正捕手の北尾斗唯君(2年)が練習中の優しい一面を話すと、中堅手の金子修輔君(3年)は「いつも最後まで練習しています」と努力家の顔を明かした。

 

最後の夏はスタンドにいるはずだった。正捕手に加え、2番手捕手も後輩、実力的にベンチ入りは難しかった。ただ、履正社と同じように東山はベンチ入りメンバーを選手間投票で決める。みんなが高木君に票を入れた。足立景司監督は「僕が見えないところも選手たちはよくみえているので選手間投票にしています。高木の場合は僕が見ていないところですごく練習をしていたみたいで、選手からの信頼もすごく厚かったです」。背番号13のユニホームに合わせて被る帽子のツバには指揮官が“日本一の女房”としたためてくれた。

 

2回戦で、このあと京都大会を制する立命館宇治と当たった東山は1対9で7回コールド負けを喫した。「最後は受けたかったんで」試合後、ベンチの前でエース松本圭輔君のキャッチボールの相手をつとめた。ホームベースを前に受けることはできなかったが、二人だけの特別な時間となった。「北尾には勝てないんで!自分ができることはやりきりました!」表情はすがすがしかった。「捕手として大切な周りをみるということが最初はできていなくて、視野が狭いと言われていた。中学の時は嫌なことから逃げてばかりだったけど、人が嫌がることを率先してやるようになりました。ゴミ拾いや掃除とか」後輩捕手に技術は勝らなくても、東山に来たことで大切なことに気づくことができたという。「野球がええ人間に育ててくれました」と両親も息子の成長を感じていた。

 

“目配り 気配り 思いやり”

大切にしてきた言葉は、これからの人生で間違いなく役に立つはず。甲子園に行けなくても、試合に出られなくても、人の為に動けるようになった。野球少年が東山での3年間で綺麗な大人色に染まっていった。