その店に入ってみた。

  入るとすぐに店員が出てきて、「いらっしゃいませ」と言う。

  昭子が近所で買った弁当を持っているのを見て、店員は怪訝な顔をした。

  それはそうだ。

  いかにも近所のOLという女が、弁当を買ったついでに切手をシートで売りに来たら、自分の会社の切手を持ち出してきたと分かる。

  盗んだとすぐにバレる品を、普通のOLが売りに来るなんて。

  昭子が帰った後、その店員はほかの店員に「今日ね、こういう客が来たんだけど、絶対に自分の会社の切手盗んで売りに来たんだよね」と言うであろう。

  その通りですけど。

  店の中はわざと照明を落としているのか薄暗く、客の顔が映るように防犯カメラが向けられていた。

  カメラに映っったら、証拠が残ってしまう。

  「ここに来た証拠が残る」と思うと、「しまった・・」という後悔と「本当にこういう場所に足を踏み入れた」という妙な興奮があった。

  そこは昭子が初めて体験する悪所というものだった。

  彼女はどうして会社の物を盗んでリサイクルショップでカネに替えようなどと思いついたのか。

  分からない。

  ただ、悪所に行ってみたい、どんなところか知りたい。

  普段、まじめに仕事をして、会社でも評価されている。

  その会社では、「昭子さん」は符号のように典型的なOLになっていた。

  悪いことなど、絶対にしそうにもない。

  でも。

  彼女はしてみたかった。

  悪いことを。

  まるで悪事に恋しているように。

  会社に不満があったのだろうか。

  女子社員のほとんどが30を過ぎたその会社は、財閥系商社の子会社の中でも居心地がいい方だったと思う。

  取引先から「あの会社はオールドミスの吹きだまり」と言われていることを昭子は長い間、知らなかった。

  彼女はその会社の中でも美人と呼ばれる部類で、その会社にあまり不満もなかったが、あるとき会社から不当に安く扱われている気がして、会社にささやかな復讐をしたくなったのかもしれない。

  切手シートは、500円切手だと1枚5万。

  それをリサイクルショップに持ち込めば、9割の現金、つまり4万5000円になった。

  土曜日に休日出勤したとき、そのシートを1枚、持ち出した。

  それを平日、お昼休みにお弁当を買ったついでに近所のリサイクルショップへ入った。

  昭子の目の前で、切手が魔法のように現金に換わり。

  私の3日分の給料。

  高いのか、安いのか。

  彼女はその店に3度、足を運び。

  しばらくして社長が経理の部長のところに行って、「先月、通信費がかかりすぎている。なるべく安く書類を発送するように」と話しているのを見た。

  さすがに社長、会社の財務の基本は抑えている。でも、私の仕業と分からないなんてバカじゃない?

  と彼女は心の中でほくそ笑んだ。

  お育ちのいい社長は、まさか社員が切手を盗んでカネに替えているとは思っていないようだった。

  ましてや、その犯人が社内で一番、仕事ができるマジメなOLだとは。

  昭子は思う。

  人は誰でもちょっとした悪事が必要だし、この世には悪所が必要なのだ。現実からちょっと逃げる魔法が。

  社長が気づく前に、昭子は切手を盗むのをやめた。

  でも、初めて盗み、初めてそれを金に換えた後。

  同僚の女子社員に、「ねえ、昭ちゃんて今日、きれいだね。いつもきれいだけど。あなたって似てるよね、あの作家に。年下との恋人の話を書いて売れている人」と言われてドキリとした。

  悪所に行った興奮が、私を綺麗にした?
  
  そういうものなのだろうか。

  美人と呼ばれたい人は、犯罪にならない程度に悪いことをしましょう。
  
  そういうことなのか。

  その会社を私は20年前にやめた。同僚である8歳年下の男性と結婚し、退職。

  でも。

  一番、記憶に残っているのは、盗んだ切手を売ったこと。

  私は会社に何をしに行っていたのだろうか?