林真理子センセがエッセイに書いていたのですが。


  好きな仕事をしたいと思うなら、「甘い一口を食べたかったら苦い部分をガマンしなければならない」と覚悟すること。


  彼女の知り合いが作家としてチヤホヤされている彼女を見て、「若いうちに結婚して仕事を辞めて損した。私だって仕事してればこんな風にいい思いできたかも」と後悔。


  しかし、林真理子センセは思う。


  仕事を優先して結婚もせず、この仕事が終わっても誰もいない寒い部屋に帰って独りで別の仕事を終わらせなければならない、もしかしたら徹夜になるかもしれない。


  仕事でいい思いをするためには、いい思いをする何十倍もつらい思いをすると理解しないと。


  ま、そういう話ね。


  で。


  おばちゃん、翻訳の仕事を30年やってきたのですが。


  この仕事で良かった!と心から思えるのに20年かかり。


  自分がやりたい仕事など、なかなか来ないのが普通である。


  私は学生のときから割と思うような仕事に当たってきたのですが、それでも、この仕事で良かったと思うまでに20年かかり。


  翻訳の仕事をしたい、と口にする人と話していると。


  私、文芸翻訳をやってみたいんだけど、仕事紹介して。


  私、外国に行っていたし、英語できるから、翻訳の仕事を紹介して。


  などなど。


  甘い!


  甘すぎる!


  あんたのためにうまい話が用意されているわけ、ないじゃん。


  誰かが用意して待っているわけじゃない。自分で努力して努力して、そして10年、20年経ってやっとつかむもの。


  で。


  私、若いときに「映画の字幕翻訳」という講座を受けたことがあったのですが。講師は字幕翻訳家の岡枝慎二さんです。


  とにかく映画が好き、だから、字幕翻訳をやってみたい。


  そういう人が集まるんですね、そういう講座に。


  で。


  最初の授業で自己紹介するのですが、「映画が大好き」と自称する人って勘違いしている人なのだろうか。


  自分に酔いすぎ。


  自分に酔ってるあんたなんか、他人にとってはどうでもいいってえの。


  この講座に申し込んだとき、その翻訳学校の受付担当者が「この講座に出席してみれば分かると思うのですが、映画が大好き、と、字幕翻訳ができる、は全く違うことなんですよ。映画が大好き、だから、字幕翻訳ができると勘違いしている人たちが受講生のほとんどなんです」。


  なかなかに厳しいお言葉。


  しかし。


  実際に担当者が言う通りで。


  映画が大好きな人って、現実から逃げてる人なんだろうか。


  自分が、自分が。


  自分って素晴らしい人であるはず。


  それと字幕が翻訳できるかは別。


  字幕翻訳には膨大な知識が必要とされ。異常なほど博識でないと、訳せない。


  「これは、努力してたどり着ける」という話じゃないな、私がどれだけ勉強しても無理。


  私はそう悟った。


  その後、どんな分野の話でも訳せた私でさえそう思ったのですから、字幕翻訳とは相当、難しい分野なんですよ。


  岡枝さんも、「字幕翻訳で食べている翻訳者は日本に5人しかいません。僕と戸田奈津子さんと他に3人だけ」と断言。


  日本に5人しかいない、そういう仕事ってめったにない。


  で。


  それから20年以上経って。


  ヒットした映画を紹介する記事や、その映画のパンフに掲載されるコメント、その映画のあらすじ、そんなものをまとめて訳す仕事が来た。


  私のところにです。


  偶然です。


  私に仕事をくれる翻訳会社の担当者が私を高く評価していて、「早い人で1日に5枚くらいですが、あなたは1日7枚くらい訳せますね」、あるいは、「本一冊まるごと任せても大丈夫ですね」と「どんな仕事でこの人なら任せて安心」と私を買ってくれたのである。


  能力があり、努力し、その仕事を20年以上も続けていると、自分が望むチャンスが巡ってくる(かもしれない)。


  おお、ついに来たか。


  映画に関して、楽しそうな翻訳の仕事。


  こういう仕事ばっかりやっている人がこの世のどこかにいるのね、うらやまし~。


  いやいや、そういう人って日本に5人しかいないんだわ。

  

  字幕翻訳家の岡枝さんはそのときすでに亡くなっていたので、日本に4人になっていたはず。


  で。


  この映画、「×年×月×日土曜日」みたいなタイトルで、有名な監督が老いてから久しぶりに手掛けた作品で、「あのすごい監督がカムバック!」、「やっぱりあの監督はすごかった!」と、その作品は絶賛されたようで。


  で。


  この映画のタイトルが何だったか、思い出せない。


  ババアになったの、私も。


  なんていうか、そのときにはその程度には面白い翻訳の仕事、常にやっていたので、字幕翻訳のプロになるのを断念したときよりも私は「大物」になっていたのである。


  大物だからねえ、私。この程度の仕事、どうってことないわ。


  で。


  映画のタイトルも忘れた。


  それからしばらく時が経ち。


  今日、思い立ってその映画のタイトルを調べてみたら。


  「その土曜日 7時58分」、だって。


  私の記憶とちょっと違う。


  監督はシドニー・ルメット。これが遺作となったらしい。久しぶりのヒット作を最後に亡くなったのだから、監督としては幸せだったかも。


  あの映画のパンフに掲載された記事を訳したのは私です。色々な新聞や雑誌の映画評を訳したのも私です。


  すごい?

  

  そうでもない?


  世のほとんどの人にとっては、どうでもいいよね。

  

  で。


  私が言いたいのは。


  ヒット映画にかかわる翻訳の仕事をしたい!

  

  などと願っても。


  20年かかって、やっと1回だけその機会が巡ってきた。


  あきらめていた甘い一口を食べるために私は20年かかったってこと?

  

  翻訳の仕事を目指す人、好きな仕事をしたい人、それが現実です。


  だからどうってことでもないけどね。


  うちの子じゃないから。


  好きな仕事したいなら、目指して。


  私には何の責任もないもん。