昭和40年代の東北の田舎、茨城の田舎で育った私にとっては、外国に行くのは「洋行」、外国製品は「舶来の品」という感じであった。いや、「南蛮渡来のご禁制の品」?


 お正月に茨城のド田舎の親戚の家に行ったら、その家のおばさんが、皮の上着を持ってきて「ほら!うちの娘がアメ横で買ったイタリー製の皮のジャケットよ、来てごらんなさいよ」と騒ぐのである。


 なにしろ、「舶来の品」サマサマ、ですから。今から思えば、アメ横である。庶民的な買い物をするところではなかろうか。


 が、おばさんが「着てみろ」と騒ぐから、私も着てみたのである。それだけの話。


 この本では、内容もさることながら章の始めに掲載されている写真に、海外旅行に出かけるその時代の日本人の様子がうかがえる。


 第1章では、移民船「あめりか丸」に乗って「海外」へ旅立つ若者。日の丸を振ったり、紙テープが船と岸壁をつないでいる。1950年代。


 第2章では、日の丸リュックをしょってロンドンを歩く、日本の若者。1960年代。


 第3章では、スーツや晴れ着で出国する若者。1970年代。


 第4章では、プラザ合意後に、Tシャツ姿でアジアに向かう若者。1980年代。


 第5章では、バックパッカーの聖地、タイのカオサン通り。2000年代。


 第6章では、海外旅行は作る物から選ぶ物になった、ということで格安旅行代理店の店先。2000年代。


 私は海外に行ったことがない。もし、戦争になったら日本に帰れないかも、とふと思うからである。


 大学のゼミの教授が戦後初のフルブライト留学で、アメリカに行きマスターを取った人だった。ドルの持ち出しが1000ドルに限られていたので、東北大の教授だったパパが闇ドルを1000ドル手に入れて、それでアメリカで1年生活するのはたいへんだったそうである。


 アメ1つ買うにも、店先を何度もうろうろして、なかなか決められなかったそうである。ドルが360円に固定されていた時代。闇ドルは、実質、1ドル400円だったそうである。


 うちの大学で、夏休みに、アメリカに行く修学旅行みたいなものがあった。希望者だけ。もう、お嬢様の道楽。30万円也。私は当然、行かなかった。そんなお金、ウチの親は出さないから。「たかが学生に、親が30万出して海外で遊ばせるよ」、と私は内心びっくりした。が、バブルの頃。世の中が浮かれていたから、学生の海外旅行は珍しくなかった。


 商社で仕事しているとき、バブルがはじけていきなり不景気。商社だから当然、海外出張も多い。三菱商事に務めるご主人についてフィリピンのマニラに行っていた、というOLがいた。その人は今、55才くらい。当時、40才。


 三菱商事では男性社員をランク付けし、マニラに派遣されるのは、ABCDランクのCかDだそうである。それでも、そのOLは「主人の仕事で自分も外国に行った」がご自慢だったのである。何が自慢か知らないが。当のご主人の方は、「三菱商事からマニアに行くのは名誉なことではない」と言っていた。


 その当時、三井物産のマニラ支店長が現地で誘拐された。慶応に行った友達によると、三井物産は慶応出はマニラなどの発展途上国の危ない地域に派遣する。東大や一ツ橋の出身は、先進国の安全な地域に派遣する、そうである。で、慶応で、「三井物産による学歴差別は止めさせよう」と署名を集めている学生がいたそうである。


 本当だろうか。でも、慶応の文学部に行っていたその子がそう言っていたので、本当なのだろう。男の学歴で、慶応は、東大一ツ橋に比べると不利なのだろうか。で、外国に行くときもそんなに関係があるのだろうか。


 自分が年取ってくると、ますます日本を出たくなくなる。


 仕事で、「へえ、外国でこんなことが起きてるのかあ」、と知るだけで十分である。が、若いときに実際に外国に行って、色々見ておけばよかったと思うこともある。結局、思うだけだけど。