2019年7月2日:パート3

 前回のブログに、24年間の国会議員生活を終える前に(=選挙に突入する前に)書いておかねばならない2つのことがあると記した。1つ目は、参院自民党の同僚、世耕弘成経産大臣へのメッセージだ。

 世耕弘成経産大臣は、かつて同じ派閥(政策政策研究会)の盟友だった。若手議員の頃は、数々の政局で力を合わせて戦った。小泉内閣でも森内閣でも第一次安倍内閣でもそうだった。複数の政策勉強会を一緒に立ち上げたり、チームを組んで重要法案を通したり、筋の悪い法案を潰したりした。政治は(良くも悪くも)今よりずっとダイナミックだった。

 野党時代に河野太郎外相を総裁選に担ぎ出した。立候補に必要な20人の署名集めは2人で始めた。そう言えば思い出した。「太郎問題」を話し合うために、今を時めく河野外相と、現内閣で水を得た魚のような活躍を見せている世耕経産大臣を、自分が無理やり週末に呼び出したのだ。今、思うとスゴいことですよね?(笑)

 

 野党時代の自民党エネルギー政策特命委員長として、党の方針を取り纏める際にも世耕氏の力を借りた。最後は「悲惨な末路」が待ち構えていた参院自民党革命(?)も、2人で組んだからこそ、それなりの端緒を開くことが出来た。

 

 細かいことは書かないが、「負けられない勝負」に勝つために、ある議員の前で2人一緒に(生まれて初めて)土下座したこともあった…なあ。😰振り返ってみると、山本・世耕コンビがスクラムを組んだ勝負は、ほとんど負けたことがなかった。

 

  何と言っても忘れられないのは、自民党野党時代の国会。政権奪還の原動力になったのは、当時の参院自民党の気迫と覚悟だったと確信している。あの時も2人で知恵を絞り、戦略を練った。民主党政権と激しく対峙する日々だった。

 

 国会議員としては自分が数年、先輩だ。年齢も自分のほうが確か5歳(?)年上だった気がする。だから「共闘する」というより、こちらからお願いして助けてもらうという場合が多かった。多分、断られたことは、ほとんどなかった。その意味では、世耕氏にとても感謝している。

 にもかかわらず、ある時から「疎遠」になった。細かい経緯は書かないが、どう考えても自分が悪い。世耕氏の立場に立ってみれば、「こんなに一生懸命、支えてあげたのになぜ?!」という気持ちもあったに違いない。友人たちから「6歳児」と呼ばれる自分の悪い癖だ。

 世耕大臣が政権の中枢に入ってからもう6年半になる。この間、世耕氏は、戦後最長の官房副長官として安倍官邸と共に様々な難局を乗り切り、総理の近くで歴史的な数々の外交のドラマを目撃し、あらゆる修羅場を経験したはずだ。今も(今度は主要大臣として)政治家としての実績と経験を積み重ねている。過去のちっちゃな出来事なんて、考える暇もないだろう。ほとんど忘れているかもしれない。

 それでも、20年以上、務めた参院議員を卒業する(?)にあたり、次の言葉はこのブログに永久保存じておきたい。

 世耕さん、20年間、本当にありがとう!😆いろいろ嫌な思いをさせたとしたら、本当にごめんなさい!!🙇‍♂️

 今、振り返ってみると、若手議員の頃、参院自民党でたった1人、参院の最高実力者だった村上正邦氏と青木幹雄氏(2人ともスゴい政治家だった)に逆らっていた山本一太と行動を共にしてくれたのは、世耕さんだけだった。今のあまりに大人しい参院の若手議員の人たちには、想像もつかない世界だった。(笑)

 先日、経産大臣室を訪ねた際、久しぶりに(5、6年ぶりに?)2人きりで話をした。余裕のある、落ち着いた表情だった。スゴくいい感じだ。激務であることは間違いないが、「適材適所のポスト」に大きなやり甲斐を感じている様子だった。

 世耕大臣の説明能力(答弁能力)はズバ抜けている。経産官僚にとっても、これほど頼りになる大臣はいないはずだ。安倍総理もどれほど心強いことだろう。安倍政権の重要閣僚として、引き続き国内外に山積する難問に立ち向かい、安倍総理を最後まで支えて欲しい。個人的には、(安倍内閣のためにも、日本のためにも)ぜひ、経産大臣を続投してもらいたいと思う。

 ああ、少しスッキリした。そろそろ腹筋と背筋の時間だ。

追伸:山本一太の伝説的(?)ネット番組「直滑降ストリーム」は「志」を果たした後も続けると決めている。そうなった時は、何としても世耕弘成経産大臣(その時の肩書きがどうであろうと)をゲストに呼びたい。世耕大臣、ぜひ群馬に足を運んでください!皆で大歓迎しますから!!😄