2016年1月15日:パート2

 今日、東京在住の年上の従兄弟からメッセージが届いた。 山本家のルーツに関するブログを読んでくれたらしい。 こう書いてあった。

「われわれと鑑三とは7親等離れています。 民法的には6親等以内のが親族です。まあ、鑑三の血は流れていませんが、同じDNAは流れています!」と。

 なるほど、「遠い親戚」というのは、結構、正しい表現だ、な。(ニッコリ)

 群馬県の隠れた特産物は「総理大臣」だと言われている。 自分の記憶が正しければ、戦後4人もの総理を輩出した県は上州群馬県しかない。 長州山口県出身の総理は7人と全国最多だが、戦後に限って言えば3人だったと思う。

 群馬が生んだ4人のリーダーは、亡父・山本富雄が敬愛し、生涯の師と仰いでいた福田赳夫元首相、間違いなく戦後の大宰相の1人に数えられる中曽根康弘元首相、人間力の塊だった小渕敬三元首相、私心というものが全く感じられなかった福田康夫元首相。 それぞれ尊敬する郷土出身の大物政治家だ。

 それでも、子供時代を群馬で過ごしたひとは誰でも暗記している郷土かるた(群馬県人なら誰でも知っているあの「上毛かるた」)に、群馬出身の総理は1人も登場しない。 というか、政治家は1人も出て来ない。

 そりゃあ、そうだろう。 今さら差し替えられる札は一枚もない。 たとえば「に」の札として、「日本に尽くした4人の総理」というのを作ったら、「日本で最初の富岡製糸」が外れてしまう。(笑)

 「上毛かるた」に登場する群馬県ゆかりの偉人は以下のような人々だ。

「こ」~「心の灯台、内村鑑三」(こころのとうだい、うちむらかんぞう)

「て」~「天下の義人、茂左衛門」(てんかのぎじん、もざえもん)
「ぬ」~「沼田城下の塩原太助」(ぬまたじょうかのしおばらたすけ
「ほ」~「誇る文豪、田山花袋」(ほこるぶんごう、たやまかたい)
「へ」~「平和の使い、新島襄」(へいわのつかい、にいじまじょう)
「れ」~「歴史に名高い新田義貞」(れきしになだかいにったよしさだ)
「わ」~「和算の大家、関孝和」(わさんのたいか、せきこうわ)
「ろ」~「老農、船津伝次平」(ろうのう、ふなづでんじべえ)

 内村鑑三(1861-1930)は、万延2年(1861年)、高崎藩士・内村宜之の長男として江戸小石川に生まれた。 各種の人名辞典で調べると、「日本のキリスト教思想家・文学者・評論家」などと紹介されている。 が、そんな単純な肩書きでは推し量れない傑出した人物だった。

 内村の人生は波乱万丈だ。 札幌農学校に入学したり、米国留学したり、「不敬事件」で教職を追われたりする。 新聞記者になったと思うと、雑誌を創刊し、足尾銅山の鉱毒事件では実態を世間に訴える。 

 私生活でも3人の女性(妻)との離婚、死別、再婚を経験している。 日露戦争で非戦論を唱え、聖書のみに基づく無教会主義を創設したことでも知られる。

 厳しい武士の家に育ち、愛国主義者である内村鑑三がキリスト教の信徒になっていく過程を含め、その生涯を通じて貫かれているのが「反骨の精神」と「武士道の矜持」だった。 ここらへんの美学に痺れるのだ。 

 内村鑑三とはいかなる人物だったのか? ひと言で表現すれば、日本的なキリスト教の哲学を創設した思想家であると同時に、本物の愛国者であり、武士道に代表される日本人の美徳を何よりも重んじた「国際人」だった。 内村の名著「代表的な日本人」を読めば、そのことがよく分かる。

 英語で出版されたこの本の中で紹介されたのは、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮という歴史上の5人の人物の生き方だった。 

 単なる人物伝ではない。 文明論と捉えてもおかしくない世界観だと思う。 日本が欧米列強の仲間入りをしようと必死に近代化を進めていた明治の時代に、「日本にはキリスト教文明に劣らない精神性の深遠さがある」ことを世界に向けて発信したのだ。

 日本人の記者団から「日本で最も尊敬する政治家は誰か?」と聞かれたケネディー大統領が「上杉鷹山(うえすぎ・ようざん)」と答えたのは、あまりに有名な話。 どう考えても、内村鑑三の「代表的日本人」を読んだとしか考えられない。

 数年前、自分自身が「内村鑑三のDNAを僅かでも受け継いでる」と知る前から、思想家・内村鑑三は自分にとって特別な存在だった。 政治家として試練に直面した時は、いつも内村の講演録「後世への最大遺物」を読み返していたからだ。

 あ、電話が来た。 小声で囁くくらいなら大丈夫だろうか? この続きは「山本一太のルーツ:その5」で。


◇山本一太オリジナル曲:
「素顔のエンジェル」
「マルガリータ」
「かいかくの詩」
「一衣帯水」
「エイシア」