2016年1月15日

 早朝。 熱い紅茶を片手にブログを書き始めた。

 テレビをつけた途端に、「軽井沢町で発生したスキーバス転落事故」のニュースが飛び込んで来た。 14人が死亡、27人が負傷と報道されている。 ご遺族の方々に心からのお悔やみを申し上げたい。 同時に、怪我をした方々の1日も早い回復をお祈りするばかりだ。

 乗客は若いひとがほとんどのようだ。 今年、成人を迎えた若者もいたかもしれない。 一瞬にして未来を奪われてしまった。 親御さんのことを思うと胸が痛む。

 場所は、軽井沢町の国道18号の碓氷バイパス。 群馬と長野の県境だ。 よく知っている道だけに、とても他人事とは思えない。 事故の原因を徹底検証する必要がある。

 気を取り直して、前回のブログの続きを書く。 「声帯の手術」から1週間が経過した。 が、焦らずにもう1日だけ休む。 活動再開は来週の月曜(1月18日)になるだろう。 この日の午後に執刀してくれた先生の診察を受ける。 先は長い。 ここが我慢のしどころだ。(ふう)

 さて、母方の祖母(はつ)の実家、秋池家の歴史について、もう少し詳しく書いておく。 今から20年以上前の「ぐんま経済新聞」の「ぐんま経済図鑑」に掲載された記事によると、高崎での秋池家の歴史は300年前の元禄時代に遡る。

 徳川時代の幕臣であり、武州川越城主だった松平伊豆守信綱(1596~1662)は、「知恵伊豆」と呼ばれるほど才智に富んだ人物だった。 島原の乱や由井正雪の乱などの処理に手腕を発揮した。 昔の時代劇にもよく登場する。

 その伊豆守の弟である松平信清が縁あって秋池家の婿養子になった。 その後、伊豆守の孫にあたる大河内輝貞が元禄7年(1694年)に高崎城主になった。 この時、秋池家の婿養子だった信清の孫の秋池儀右衛門が城主の後見人として高崎城に入った。 すなわち、城主と後見人は「またいとこ」の間柄だった。

 城主の後見人だった秋池家のひとは高崎城内に住んでいたそうだ。 高崎の今の柳川町にも邸宅があったとか。 江戸時代、秋池家が高崎藩の中核だったことがよく分かる。

 秋池家のヒストリーはここからが面白い。 明治維新で世の中は大きく変化した。 武士階級もなくなった。 その明治の変革期にまだ子供だった秋池家の11代目にあたる秋池金吾氏は、7歳の時、東京浅草の染物屋に丁稚奉公に出たのだ。 当時としては、まさしく大変身だった。 

 この金吾氏こそ、母(照子)の祖母、「かく」の兄だった。 つまり金吾氏と内村鑑三は従兄弟の関係になる。 

 ちなみに、離婚して秋池の実家に戻っていた妹の「かく」を心配して、草津温泉の大東館に嫁がせた(再婚させた)のは、兄の金吾氏だった。

 浅草の染物屋で懸命に染色の修行をした金吾氏は、明治12年、高崎に戻って染物業を開業する。 まだ20歳そこそこだった。 ここから秋池家の「武士の商法」がみごとに開花していく。

 高崎神社の氏子総代や高崎染色業組合の組合長をつとめた金吾氏は、大正13年にかぞえ68歳で亡くなった。 その後、社業を引き継いだのが12代目の秋池金一郎氏(高崎絹糸紡株式会社社長)だった。

 ここまで調べて、ようやく気がついた。 なぜ、秋池金一郎社長が先代(参院議員山本富雄)の親戚会や後援団体に入り、亡父をあんなに一生懸命、応援してくれたのかが。 金一郎社長にとって、亡母(照子)は叔母の孫だったのだ。 母はこんなこと、ちっとも話してくれなかったなあ。

 大東館の「かくおばあちゃん」は、「お城のお堀の中で生まれた」とよく話していたらしい。 従兄弟の内村鑑三のことを「鑑三さん」と呼んでいたって。 クリスチャンでもないのに、聖書を持っていたとも聞いた。 自分の曽祖母にあたる「かく」が、内村鑑三の影響を受けていたことは想像に難くない。

 亡母(山本照子)の家族の歴史を紐解きながら、強く感じたことがある。 亡父の側でいつも控えめに振舞っていた優しい母だったが、とても気丈なところがあった。 東京の女学校を卒業していたせいか、視野が広くて、教養のあるひとだった。 日本人の美徳を大事にしていた。 母には、どこか凛とした部分もあった。 それがどこから来ているのかが、ハッキリ分かった気がした。 

 群馬県ゆかりの偉人の中で、最も尊敬しているのは内村鑑三だ。 その理由は次回のブログ「山本一太のルーツ:その4」で。


◇山本一太オリジナル曲:
「素顔のエンジェル」
「マルガリータ」
「かいかくの詩」
「一衣帯水」
「エイシア」