2015年12月26日

 昨晩の茂木敏充・選対委員長をゲストに迎えての「直滑降ストリーム@cafesta」は、番組直後のユーザーアンケートで「とても良かった」と「まあまあ良かった」の合計が9割を超えた。 「茂木さんて、あんなにくだけた面白いひとだったんですね!」という反応多数。 

 茂木委員長には、自民党の「オープンエントリープロジェクト2016」もバッチリPRしてもらった。 ネットを通じて国民の手で参院選挙の候補者を発掘してもらうという画期的な試みだ。

 特に説得力があったのは、茂木委員長がグラフで指摘した「野党統一候補という考え方の根本的矛盾」だ。 が、何より、茂木敏充委員長の「人間的魅力」を発信出来たことが嬉しい。 これこそ、「直滑降ストリーム」の根幹のコンセプトだもの。 

 先ほど本人にお礼の携帯メールを送ったら、さっそく返信が来た。 「次はもっと弾けましょう!」だって。(笑) 茂木選対委員長、ご出演ありがとうございました!

 さて、熱いミルクティーを飲みながら、再び参院改革のことを書く。 今の参院自民党の新人議員たちは、きっと知らないと思う。 かつて自民党役員会に参院側から出席出来たのが参院議員会長ただ1人だったことを。 自民党4役と呼ばれていたのは、幹事長、総務会長、政調会長、参院議員会長の4人だった。 当時、参院幹事長や参院国対委員長は役員会のメンバーですらなかった。

 古参の参院議員や党のスタッフは憶えていると思う。 参院自民党幹事長を役員会のメンバーにしたのは、亡父山本富雄(当時の幹事長)だった。 当時、自民党役員会の前により多くの幹部が参加する役員連絡会(名前はちょっと違ったかもしれない)が開かれていた。 役員連絡会には、参院の幹事長や国対委員長も出席を許されていたようだ。 

 ある日、役員連絡会が終わり、続けて役員会が始まった。 そこで席を立つはずの山本参院自民党幹事長はそのまま残った。 誰も何も言わなかったそうだ。 政治改革法案をめぐる攻防等で存在感を高めていたその頃の亡父には、それだけの迫力と覚悟があった。

 この日を契機に、参院自民党幹事長は毎回、役員会に出ることになった。 ほどなく、正式に「党5役」の1人として位置づけられることになった。 当時、どこかの新聞の政治面が「党5役誕生」の経緯を取り上げていた気がする。 少し遅れて、参院国対委員長も役員会の一角を占めるようになった。 そりゃあ、そうだろう。 何しろ、当時の国対委員長はあの村上正邦元幹事長だったのだ。 党の執行部に猛然とクレームをつけたに違いない。

 参院自民党政策審議会長が役員会の席に座れるようになったのは、それからずっと後のこと(ほんの6年前のこと)だ。 参院政審会長を自民党役員会の一員にしたのは、山本富雄の息子の山本一太だった。(笑) 当時、「盲腸」(参院議員の大臣待ちのポスト)みたいに言われていた参院自民党の政審会長の役割をどう変えたのか? 過去のブログで詳しく解説してある。 興味のあるひとは、ぜひ、6年前のブログのシリーズを読んでみて欲しい。

 最後は「最悪の結末」が待ち受けていた6年前の参院革命で、初めて参院自民党の役員の1人(政策審議会長)になった。 当時、自民党は野党だった。 一般の国民は誰も知らない「参院政審会長」なるものを、誰もがやりたがる魅力のあるポストに進化させることが自分の使命だと思った。 そのためには、「参院政審会長に関する3つの不平等条約」を撤廃する必要があった。(これも当時のブログに詳しく書いてある。)

 亡父が参院自民党幹事長だった頃の戦略を意識して真似たわけではない。 が、野党自民党の政審会長だった山本一太も役員会に残った。 大島幹事長(現衆院議長)に、「山本さん、君は出なさい!」と囁かれても、耳を貸さなかった。 心配して地元まで電話をかけてきた谷垣総裁に、「参院幹事長と参院国対委員長までがメンバーで、参院政審会長だけが出られないのはおかしいと思います!」と反論した。 心優しい谷垣総裁を困らせてしまったのは心苦しかった。

 すったもんだの末、自民党役員会自体が拡大され、メンバーを増やすことになった。 政審会長も正式に役員会に呼ばれるようになった。 その当時、定期的に行われていた「自民党10役による懇談会」にも加えてもらった。 総務会にも役員として出られるようになった。 政審会長の定例記者会見も創設した。 全て谷垣総裁と大島幹事長のお陰だ。 あの時の谷垣総裁の誠実な対応には、心から感謝している。 けっして忘れない。

 今の参院自民党の若手議員たち、というか、1回生も2回生もほとんど知らないはずだ。 歴代の参院自民党幹事長が「参院の存在意義を高める」ためにどれほど決死の戦いを繰り広げて来たかということを。 党5役として認知された後、参院幹事長こそ、その時期の参院自民党の「力」や「良識」を象徴する存在だったという事実も。(ため息)

 亡父は参院幹事長のまま亡くなった。 晩年、病魔と闘いながら命をすり減らして仕事を続けていたオヤジを見て何度も思った。 なるほど、参院幹事長というのは、参院議員として長年汗をかき、政府や党で数々の実績や経験を積み重ね、衆院とも互角に勝負出来る政治家だけが辿り着ける領域なんだな、と。 きっと参院自民党議員は皆、このポストを目指しているのだ、と。 

 実際、その亡父の執念を引き継いだ村上幹事長と青木幹事長は「参院のドン」として君臨した。 衆院に落選して参院に回ったばかりの政治家が「そのまま参院幹事長になる」なんてあり得ない世界だった。(ため息X3) あの頃に比べると、参院議長もスゴく軽くなった気がする。  

 亡父山本富雄は参院議員として初めて農水大臣を務めた。 その後、党の総合農政調査会長を経て参院自民党幹事長になった。 参院で否決した政治改革法案をめぐっては、当時の衆院執行部を怒鳴りつけ、役員会でも啖呵を切った。 党人派の迫力と命がけの覚悟があった。

 ちなみに、亡父が終始、参院でコンビを組んでいた前任の斎藤十朗幹事長(元厚労相で後の参院議長)は、ミスター参議院と呼ばれる品格のある大物政治家だった。 山本富雄幹事長を引き継いだ村上正邦幹事長(元労働相、後の議員会長)、青木幹雄幹事長(後に官房長官、議員会長を歴任)が手にした「恐るべき権力」についての説明は不要だろう。 

 村上幹事長と青木幹事長には、参院という枠を超えた影響力があった。 この2人こそ、自分が戦うべき「自民党アンシャンレジームの象徴」であり、強大な2つの壁だった。 最後まで歯が立たなかった。(ガクッ) よくも悪くも、この時代は参院が政治のキャスティングボートを握っていた。 あの頃の参院自民党の戦闘力はスゴかったのだ。 振り返ってみると、あの2人の実力者に逆らい続けながら、よくここまで(参院で)生き残れてきたものだと思う。

 過去20年、衆院転出の誘いも知事選出馬の要請も辞退して、これだけの思いで参院議員を続けて来た。 参院自民党の存在意義を示すための歴代幹事長の戦いも目撃した。 野党時代には(悪役になることを覚悟で)民主党政権攻撃の先頭に立った。 あの時の参院自民党の決死の攻撃がなければ、政権奪還は実現出来なかったと自負している。

 そんな自分が昨今の参院自民党の状況を目の当たりにして、たまには落胆したり、時には少しぼやいてみたり、一瞬、やるせない気持ちになったとしても、そこは少し大目に見てください。 ただし、どんな逆境に立たされても、政治家山本一太は腐ったりしない。 常に前向きだ。(ニッコリ)

 政治を取り巻く時代の状況を的確に捉え、亡父山本富雄が発案して、村上、青木両氏が完成させた参院の影響力を高める戦略:「派閥の枠を超えて参院をひとつにまとめ、参院のリーダーに権力を集中させることで衆院との交渉力を強める」は、ある意味、理にかなっている。 が、この手法は「個々の参院議員の活動を抑えつけ、政治家としての個性を奪う」(=キャラの立たない参院議員を大量生産する)という強烈な副作用を伴う。  だからこそ、このやり方を踏襲する歴代の実力者に激しく抵抗して来たのだ。

 自分の思い描く参院自民党改革は、シンプルに言うと、「個々の参院議員が衆院より自由に活動し、発信出来る環境を作る」ことだ。 政治を志す若者が、「衆院より参院のほうが面白い!」と思えるような組織になれば、さらに個性的で多様な人材が参院に集まるようになる。 機会があれば、設計図の詳細をもう少し詳しく説明したい。

 改めて宣言しておく。 今まで、何度も失敗した。 手持ちの武器も少ない。 気がつけば、自分自身がベテランの域に入っている。 残された時間も限られているということだ。 が、それでも参院改革はあきらめない! どんなに難しくても、途中で放り投げたりしない。 山本一太の「志」はきっと次世代にも受け継がれるはずだ。 

追伸:キーボードを叩きながら、今、思い出した。 人気漫画「ワンピース」で、冥王シルバーズ・レイリーが海賊王を目指す主人公、モンキー・D・ルフィにこう尋ねる場面がある。 「やれるかキミに…“偉大なる航路”は まだまだキミらの想像を遥かに凌ぐぞ!! 敵も強い。キミに この強固な海を支配できるか!?」 ルフィはこう答える。

 「支配なんてしねェよ。この海で一番、自由なヤツが海賊王だ!」 ね、しびれるほど素敵なセリフでしょう?(ニッコリX100)


◇山本一太オリジナル曲:
「素顔のエンジェル」
「マルガリータ」
「かいかくの詩」
「一衣帯水」
「エイシア」