2015年6月5日 *掲載順が前後します。

 午前8時。 沖縄振興調査会・西普天間基地跡地における国際医療拠点化等推進小委員会の役員会。 小委員会の提言案を議論した。

 午前10時からは参院本会議。 町村信孝衆院議長逝去に対する哀悼があり、その後、学校教育法等一部改正案の質疑、採決があった。

 午前11時。 青山葬儀所で行われた町村衆院議長の葬儀・告別式に参列した。 政府や党の要職を歴任した町村議長の急逝はショックだった。 人間とは、こんなにもあっけなく逝ってしまうものなのかと思った。

 通産省時代から同じコースを歩み、派閥の会長まで引き継いだ細田博之幹事長代理の弔辞を聞きながら、「ああ、町村議長はご家族、特に奥様のことを本当に大切にされていたんだなあ」と感じた。

 かつて派閥(清和政策研究会)に属していた頃、町村議長にはいつもご迷惑ばかりかけていた。 残念ながら、親しい関係になったことは一度もなかった。 それには理由がある。  

 小泉内閣で安倍総理が官房副長官に抜擢された直後、3人の同僚議員と一緒に「勝手補佐官」というチームを立ち上げた。 言い出したのは(会の名前をつけたのも)自分だった。  

 その後は若手メンバーで集まる度に、「安倍副長官を必ず総理にしたい!途中の世代は吹っ飛ばして、一気に総裁候補になってもらおう!」などと公言していた。 当然、山本一太の世代交代論(新世代総理待望論)は、ベテラン政治家の方々の顰蹙を買った。 実際、ある席で町村議長に叱られた憶えがある。  

 町村衆院議長には、「自分こそ、次の派閥のリーダーであり、将来の総理候補だ」という強い自負があったのだと思う。 事実、町村議長は一国の首相になるだけの力量を持った政治家だった。

 町村議長に関して忘れられないエピソードがある。 2008年、JBIC(国際協力銀行)とJICA(国際協力機構)が統合され、新たなJICAが誕生した。 新JICA創設が決まるまでには、賛成派と反対派の激しいつばぜり合いがあった。 その頃、自民党内で、援助のツールを総合的に駆使できる援助機関の立ち上げを最も強く訴えていたのが、武見敬三参院議員と山本一太だった。 

 党のプロジェクトチームで武見氏とがっちりスクラムを組み、最終的には財務省の抵抗を乗り越えた。 僭越ながら、あの時の武見・山本連合軍の奮闘がなかったら、今の形のJICAは存在していない。(キッパリ) 当時、この問題に関わった財務官僚も皆、そのことを知っていると思う。

 新JICA創設までのストーリーは、改めてこのブログに(シリーズとして)書くつもりだ。 形勢は二転、三転した。 最後まで予断を許さない戦いだった。 が、財務省側の旗色が悪くなると、新組織創設に反対していた議員たちは、PTの会議に出て来なくなった。 いよいよ決着になだれ込もうとした時、町村信孝・外交調査会長(当時)が現れた。 ほぼ決まりかけた流れをせき止め、最後まで立ちふさがったのは町村会長だった。

 会議の後、武見氏にこう話した記憶がある。 「何やかんや言っても、やっぱり町村外交調査会長の存在感はスゴい。他の政治家と全然、重みが違う。弁も立つし、行動力も覚悟も半端じゃないですね」と。 最後は何とか(ギリギリのところで)納得していただいた。(ふう)

 町村信孝衆院議長のご冥福を心からお祈りします。 合唱。


◇山本一太オリジナル曲:
「素顔のエンジェル」
「マルガリータ」
「かいかくの詩」
「一衣帯水」
「エイシア」