2015年3月24日

 今日は喉が痛いし、目も痒い。 軽度の花粉症だが、薬を飲むほどではない。 その自分がこうなるなんて、よほどの量が飛散しているに違いない。(ふう)

 ここからはシリーズその3の続き。 亡父(県議だった山本富雄)が県連幹事長だった頃、群馬では「福中対決の構図」が続いていた。 県議会では、福田元総理のグループ(同志会)と中曽根元総理のグループ(県政塾)の2つの県議団が覇を競っていた。 

 というか、この時代は、(経済界も含めて)群馬全体が2つの陣営に分かれているかのような状況だった。 福田赳夫元総理を生涯の師と仰いでいた父は、当時、同志会の中核的存在(バリバリの福田系県議)だった。 

 ちなみに、今から8年前、長い歴史を持つ上記の2つの県議団グループは解散し、自民党県議団は一本化されることとなった。 背景に小選挙区制度の定着と、参院群馬地方区の2人区から1人区への移行があったことは言うまでもない。

 知事選への出馬に意欲を示したのは3人。 現職の神田知事と山本富雄を含む2人の県議(同志会系と県政塾系)だった。 知事選挙に関して、当時の地元紙(上毛新聞)の1面にこんな見出しが掲載されたのを憶えている。 「不敗(いかなる場合も勝てる)で絞れば神田か山本。調整なら00」 亡父にとって不幸だったのは、自らが神田知事下ろしの急先鋒にならざる得なかったことだ。

 いくら行動力抜群でも、どんなに選挙が強くても、当時の群馬の構図(上州戦争や神田知事下ろしの経緯)から考えて、「山本知事」でまとまるのは難しかったと思う。 さらに言うと、政治家として才気煥発だっただけに、逆にあちこちから警戒された面もあった。 

 結局、知事選の候補者調整は、福田元総理と中曽根元総理の話し合い(福中裁定)に委ねられ、妥協案として「第4の候補」(引退していた元県議会議長)に白羽の矢が立った。 

 結果として、亡父は知事選への立候補を断念。 代わりに、国政(参院議員)に転身する。 父の最初の参院選挙でも様々なドラマがあった。 が、ここらへんは長くなるので書かない。 その後、参院選挙に3回続けて当選。 農水大臣や参院自民党幹事長を歴任した。 

 その父は、4回目の選挙を目前にして66歳で亡くなった。 身体さえ健康だったら、参院議長にはなっていただろう。 それでも、亡父の最終目標は、最後まで群馬県知事だった。 「群馬で生まれて、群馬で育った上州人」という強烈なアイデンティティーがあった。

 事実、参院初の農水大臣を終え、参院自民党幹事長に就任した後も、知事選挙へのくら替えを模索した。 参院のポストを捨て、同志会グループと距離を置いていた現職知事と本気で知事選挙を戦おうとした。 が、この時も悲願は果たせなかった。 最終的に立候補出来なかった。 旗色が悪かったからではない。 亡父は覚悟を決めていた。 ここには書けない「ある事情」がそれを許さなかったのだ。

 あの時、亡父がつぶやいてた言葉が忘れられない。 「たとえ県内の業界や団体のほとんどが現職知事についたとしても、地元紙の世論調査で現職続投の声が多くても、選挙をやれば絶対に自分が勝つ!県内をくまなく回って、1人1人の県民、有権者に熱烈に訴える!政治家としてずっとそれをやって来たんだ!」

 今、政治家としてあの場面を振り返ると、こう思わずにはいられない。 「どんな事情があろうと、結果がどうなろうと、オヤジは選挙に出るべきだった!」と。 山本富雄は、若い頃から演説の名手だった。 息子よりずっとハンサムだった。(ガクッ) 政治家としてのオーラもあった。 亡父なら、必ず独立自尊の一票を掘り起こせたはずだ。

 この時のオヤジの「1人1人の有権者に訴える」という言葉は胸に深く刻まれた。 これが、政治家山本一太の選挙戦略の基本だ。

 さあ、紅茶を一杯飲んで、次の日程に向かう。 このシリーズは、その5で締めくくりたい。


◇山本一太オリジナル曲:
「素顔のエンジェル」
「マルガリータ」
「かいかくの詩」
「一衣帯水」
「エイシア」