2014年7月6日:パート2

 21時過ぎ。 名古屋から東京に向かう列車の車中からのブログ。 移動中の時間を使って、県連会長シリーズの続編を書く。

 自民党の県議の中にも誤解しているひとがいる。 だから、改めて言っておきたい。 県連会長選挙への立候補を模索しているのは、現県連会長との確執(?)とか、何かの感情のもつれとか、そんなケチな理由では断じてない!(キッパリ) 「オープンな県連会長選挙をやるべき」というのは、2009年に県連会長公選規定が作られて以来、自分が一貫して主張して来たことなのだ。

 開かれた県連会長選挙によって、自民党の政策を内外にアピールし、県連のあるべき姿や群馬県の未来像、来年4月の地方統一選挙の戦略等をオープンに議論することは、大きな意義がある。 自民党の党勢・党員拡大にも繋がる。 自分はそう確信している。 「党員の意志でリーダーを決める」仕組みをせっかく作ったのに、3回続けて無投票だったら、そもそも制度を作った意味がないではないか!

 考えてみると、山本一太の県連会長選挙出馬が「私闘」であるかのように誤解されるのは、自分の責任(不徳の致すところ)だ。 昨年夏の参院選挙の直後に書いたブログが地元紙(上毛新聞)の1面の囲み記事になり、県内に大きな波紋を呼び起こした。

 先日亡くなった大林県議(高校の同級生)に散々怒られて、結局、ウェブ上からは削除した。 が、記事のコピーがあちこちに配られたらしい。 その後のブログで、「選挙で応援していただいた方々に不愉快な思いをさせたとしたら、申し訳なく思っている」というお詫びの一文も掲載した。 この点は今も深く反省している。

 そのことを断った上で、「なぜ、あんなブログを載せたのか?」について、少しだけ自分の思いを吐露しておく。 自戒を込めて言うが、あのブログに関する地元紙の記事は「確信犯」だった。(反省X2) 

 前日、問題のブログを読んだ上毛新聞の某記者から、電話で取材を受けた。 その時、違う回答をしていたら、又はその時点でブログを修正するか削除していたら、翌日の1面の囲み記事は幻に終わっていたはずだ。 心のどこかに、「載っても仕方がない」という気持ちがあった。

 初めて言うが、選挙投票日(?)の夜、感情の赴くままに綴ったあのブログは、ひと言で言うと、「幼稚な感情の発露」だった。 我ながら、何て子供っぽい人間だろう。 思い出すと恥ずかしい。(笑) 

 それまでの経緯や事情を知らない人には、「あいつは慢心している」とか、「傲慢な性格だ」みたいに映ったかもしれない。 が、自分は慢心なんてしないし、傲慢なタイプでもない。 世の中は猛烈なスピードで変わっていく。 次の選挙では負けるかもしれないし、立候補すら出来なくなるかもしれない。 常にそう思っている。

 実は、あの夜、本当に書きたいことは別にあった。 押さえて来た感情を開放したいという強い衝動に何度も襲われた。 が、「それはやるべきではない!後戻り出来ない状況になる!」と自分自身に言い聞かせた。 

 「直滑降ブログ」の視聴率の高さ、Googleのページランクという強み、文章がサイバースペースに永久保存されること、クラウドに情報が蓄積されて何度でも引用される可能性等を考えて、自重した。 「皆のイメージが大きく変わるだろうなあ…」 そんな考えも頭を過った。

 発信したい気持ちを抑えるために、何かを吐き出さねばならなかった。 その結果が、あの物議を醸したブログになった。 あれでもスゴく我慢したのだ。(ふう)

 これでも19年、政治家をやっている。 様々な政局を経験し、何度も危機を乗り越えて生き残って来た。 選挙直後に書いたあのブログにどんな反響があるか、どこにどんな影響をもたらすかは、容易に想像出来た。 政治家山本一太にとって何一つプラスがないことも、(それどころか)将来のキャリアを狭める可能性があることも、全て分かっていた。

 それでも、あの瞬間は、戦略的思考も損得勘定も無視した。 「論理的思考」より「感情」を優先させた。 当選出来たら、必ずそうしようと思っていたからだ。 何度も言うが、政治家とは思えない稚拙さだ。(ため息) でも、仕方がない。 もともと、欠点だらけの人間だもの。(ふう) 

 あの日、2度と会えない同級生(大林県議)との電話のやり取りは、全て正確に憶えている。 手厳しい言葉の後で、大林はこう言った。 「でもさあ、18年も国会議員をやっていろいろ分かっているはずの山本が、反発が出るのも承知であんなブログを書くなんて、よほどの思いがあってのことなんだろうなあ。オレもそのことは感じるよ!」

 あ、間もなく東京のアナウンス。 続きは次回のブログで。


「fs山本一太オリジナル曲「素顔のエンジェル」「マルガリータ」「かいかくの詩」