2014年6月29日

 午後の新幹線で地元に向かっている。 某団体での講演や県議とのミーティングがセットされている。 東京駅のスタンドカフェで買ったミルクティーを飲みながら、ブログを書き始めた。

 ここからは、久々の県連会長選挙シリーズ。 県連内には、「オープンな県連会長選挙をやると、自民党群馬県連が旧来の対立構造(福田系と中曽根系の2つのグループの対決構図)に逆戻りするのではないか?」と心配する声もある。 が、県連会長選挙がどんな展開になろうと、時代が逆行するとは思えない。 そう考える理由は以下のとおりだ。

 上州群馬県と言えば、戦後、4人の内閣総理大臣を輩出した政治のメッカ。 その群馬の県議会には、かつて、福田元総理の流れを汲む「同志会」と中曽根元総理を支援する「県政塾」という2つの県議グループが覇を競っていた時代があった。 自民党県議団の中に福田系、中曽根系の2つの派閥が形成されたのは、ある意味、必然だった。 何しろ、中選挙区時代には、福田赳夫元総理、中曽根康弘元総理、小渕敬三元総理が同じ選挙区(旧群馬3区)で戦っていたのだ。 選挙の度にマスコミの注目を集めていたのが、福田元総理と中曽根元総理のトップ争いだった。

 衆院選挙での両派のライバル関係は、当然、複数区だった参院選挙にも反映された。 参院群馬地方区では、福田系候補と中曽根系候補がしのぎを削り、結果として自民党が2議席を独占するというパターンが続いた。 野党候補は毎回、保守同士の激しい選挙戦の風圧で吹き飛ばされた。  これはこれで、群馬の自民党を活性化する競争原理のメカニズムとして機能していたと言えなくもない。 福田系と中曽根系の競り合いは、各市町村の首長選、市町村議会議員選挙にまで波及していった。

 2大勢力がしのぎを削る中で、県連のポストも、「同志会」(福田系県議団)と「県政塾」(中曽根系県議団)のせめぎ合いとバランスの中で決められた。 そして、福田系県議団(同志会)の中核として、生涯の師と仰いでいた福田赳夫元総理の衆院選挙を支えていたのが、亡父山本富雄だった。 

 若手県議のリーダーだった山本富雄は、それまで重鎮のベテラン県議が独占していた県連幹事長ポストを「当選3期で奪い取る」(柳沢元県議の表現)ほど血気盛んだった。 当時(=県議時代)の亡父の活躍ぶりは、「同志会」の後輩だった柳沢元県議から何度も聞かされた。

 保守王国群馬の風物詩だった「県議会での福中対決」を終焉に導いたのは「小選挙区制度の導入」だった。 続けて、複数区だった参院群馬地方区も1人区になった。 この時点で、国政選挙の度に2つに分かれてぶつかり合っていた2つの県議団グループが存在する根本的な理由は消滅した。

 こうした流れを受けて、40年に渡って群馬県政を動かして来た2つの派閥(同志会と県政塾)は解散することになった。 群馬の自民党県議団が1つになった瞬間だった。 この群馬県政史上に残る改革に大きく貢献したのが、当時の新人県議グループ(今の3期生)と大澤県連幹事長(現群馬県知事)だったことを知る人は意外に少ない。

 自民党県議団が大同団結してから、すでに10年以上が経過している。 今の県議団は結束が固い。 仲間同士で常に助け合っている。 今さら、何があろうと割れて争うようなことはない。 ましてや、県連会長選挙をやったくらいで、県議団が分裂して「昔の対立構図」が復活するなんてあり得ない話だ。(笑) そこは、皆、分かっていると思う。

 加えて言うと、自民党県連一本化の後で当選し、県議団最大のグループを形成している今の1期生、2期生の県議に「オレは福田系」「私は中曽根系」みたいな意識はない。

 さらにつけ加えるなら、小渕恵三元総理と親しかった県議の人たちも、県連内で存在感を増している。 群馬県議会の勢力図は、もはや2つの流れで色分けされるほど単純でもない。

 あ、もう高崎。 急いでパソコンをしまわないと。 この続きは次回のブログで。


「fs山本一太オリジナル曲「素顔のエンジェル」「マルガリータ」「かいかくの詩」