2013年6月3日

 夜8時過ぎ。 ご飯が炊きあがるまで、少し時間がある。 急いで本日最初のブログを書き上げてしまおう。

 今から7年前、自民党の総裁選挙が行われた。 その結果、安倍官房長官(当時)が総裁に選ばれ、第1次安倍内閣が発足した。 昨日のことのように憶えている。 

 総裁選の数ヶ月前から、「清和政策研究会」の動きに注目が集まっていた。 2人の総理を続けて誕生させ、党内最大の政策集団になっていたこのグループの中で、安倍晋三官房長官と福田康夫元官房長官の2人の名前が「ポスト小泉」の後継候補として浮上していたからだ。 こうしたマスコミ報道を受け、群馬県では「上州からの4人目の総理」を期待する声が高まっていた。

 にもかかわらず、群馬県選出の参院議員だった山本一太は、最初から最後まで、安倍晋三官房長官・絶対支持というスタンスを貫いた。 結局、福田元総理が出馬を表明することはなかったものの、あの時の自分の言動が、どれほど福田元総理を支持して来た地元の方々の気持ちを傷つけたか。 そのことを思うと、今でも胸が痛い。 心からお詫びしたい気持ちで一杯だ。 だいいち、山本一太は、故・福田赳夫元総理を生涯の師と仰いでいた亡父の時代から、生粋の福田系参院議員として過去2回の選挙を勝ち抜いて来たのだ。

 いちいち詳しいことは書かない。 でも、自分はあの時、「たとえ次の選挙で落選しても、安倍政権を作らねばならない!」と固く決意していた。 地元の秘書たちも、針のむしろに座らされた気持ちだったろう。 清和研の総会(昼食会)では、毎回のように厳しく叱られた。 それでも、自らの主張は変えなかった。

 そんな中、柳沢本次県議が上京した。 県議だった義兄も一緒だった。 目的は、「山本一太がこれ以上、安倍支持を発信しないように」説得すること。 夕食を食べながら、話をした。 誰に何と言われようと、安倍官房長官への支持を取り下げるつもりはなかった。 が、この時ばかりは、本当に苦しかった。 大恩ある柳沢県議からのたっての願いを断らざる得なかったのだ。 その後も安倍総理待望論を言い続けた。 時代の波に乗った安倍官房長官が党のリーダーに選ばれ、第1次安倍政権が誕生した。

 この件を契機に、12年かけて築いて来た柳沢元県議との信頼関係は、完全に失われた。 その後は、すっかり疎遠になってしまった。 柳沢氏が怒るのは当たり前だ。 亡父とともに、群馬の「福田イズム」を一途に守り抜いて来た信義のひとだもの。 ずっと目をかけて来た山本一太の行動は、許し難いことだったに違いない。 自分が柳沢氏の立場だったら、絶対に許さないと思う。

 総裁選挙の翌年に行われた3回目の参院選挙では、自民党に大逆風が吹いた。 文字通り、「三重苦」の戦いだった。 この時も山本一太流を貫き、自民党候補者の中でただ1人、前回より大きく票を伸ばして圧勝した。 その後も、時々、山本一太の活動に対する柳沢元県議の厳しい評価が伝わって来た。 何を言われても仕方がないと思っていた。

 が、そこは懐の広い柳沢元県議のこと。 昨年あたりから、何とか言葉を交わせるようになった。 握手も出来るようになった。 最近は、挨拶の中で、ちょっぴり言及してくれることもある。 が、以前のような関係には、けっして戻れない。 人間関係、特に政治家と政治家の関係は、そんなに生易しいものではない。 落選を含むあらゆる代償を覚悟した上で、安倍官房長官を応援しようと心に決めていたのだ。

 それはそうとしても、政治家として最も苦しかった時期に助けていただいたことは、生涯、忘れない。 これまでお世話になったことに心から感謝していること、そして、あの総裁選挙で敬愛する恩人の顔を潰してしまったことを今でも本当に申し訳なく思っていることは、改めてご本人に伝えておきたかった。 自分の気持ちを、このブログに残しておきたかった。

 柳沢先生、米寿の祝賀会で申し上げたように、まだまだ先生にやっていただかねばならないことが山ほどあります。 保守王国群馬の歴史を未来に繋ぐ役目も担っていただかないと。 小渕優子さんも、若手政治リーダーの1人として、いよいよ大きく飛躍する時期です。 福田イズムの継承者である福田達夫氏にも、着実に王道を歩んでもらわねばなりません。

 これからも益々お元気で、故郷群馬のためにご活躍ください! 私も安倍政権の閣僚の1人として、群馬のため、日本のために、全身全霊で自らの使命に取り組みます!! さあ、猛スピードで夕食を準備する。


山本一太オリジナル曲「素顔のエンジェル」「マルガリータ」「かいかくの詩」