2012年5月6日:パート3

 午前零時30分。 正確には、5月7日だ。 5月9日に、超党派の「日本型首相公選を考える会」の最初の勉強会をやることになった。 きっかけは、今から11年前に、みんなの党の浅尾慶一郎氏(当時は民主党参院議員)との共著で発表した首相公選に関する提言だ。 

 2001年に中央公論に投稿した山本・浅尾論文の全文を掲載する。 

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『首相公選制の手続きはこれだ 平成13年 中央公論1月』

浅尾 慶一郎(参議院議員 民主党)
山本 一太(参議院議員 自民党)

<求められる首相のリーダーシップ>

 わずか1ケ月、いや10日余りで新しい時代―21世紀を迎える。
新世紀を目前に、変革の胎動は日本の政界にも起こりつつある。
1999年4月には東京都に石原都政が誕生。
 
 去る10月には保守王国・長野県で田中康夫氏が知事に就任し、11月には栃木県において政党の推薦を受けない福田昭夫氏が5選を目指す現職に競り勝った。地方を中心に、政治に新しい息吹が感じれれた象徴的な出来事だった。

 一方、国政は相変わらず暗雲に覆われ、文字通り「世紀末」を実感させる。どの政党も国民の政治不信に応える充分な提言もなく、有権者の諦観を募らせている。
 
 コンピュータの著しい普及による〈ドット・コム時代〉には、迅速かつ果敢な政治決断と実行が求められる。情報革命を中核としたグローバル化の波の中 で、時代の変化に柔軟なものだけが勝ち残る時代である。

 当然、トップにはそれに見合う決断と実行が求められる。だが、日本丸の舵取り役=内閣総理大臣が大 鉈をふるえる環境は、残念ながら整っていない。

 首相の権限を強化するためには、何よりも国民の信任と支持が不可欠である。激戦・接戦が続いたアメリカ大統領選挙も、結局は国民に権力の源泉を求めての戦いであった。
 
 石原知事が辣腕を揮えるのも、都民に直接選ばれた強みがあればこそ。田中氏が長野県庁を敵に回しながら県政の改革に着手できるのも、県民に直接選ばれた自信と強みがあるからである。

 首相であれば、それは〈公選〉という手続きである。

 無党派層を得体のしれない代物として恐れ、公選導入をためらうのではなく、彼らの支持を〈武器〉により大胆な政策を遂行すべき時代なのである。

 萌芽はある。超党派議員でつくる「首相公選制を考える国会議員の会」(会長・山崎拓元自民党政調会長)は憲法改正を念頭に、5年ぶりに活動を再開した。

 民主党の鳩山由紀夫代表も、しばしば首相公選論に言及している。昭和20年代に中曾根康弘元首相が唱えた公選論は、いまや時代の閉塞感を払拭する切り 札になろうとしているのだ。

1月には、霞が関改革=省庁再編とともに官邸機能も強化される。だが、歴史を繙くまでもなく、〈器〉が換えられても〈中身〉は旧態依然という例は十 指に余る。

 衆参各院に憲法調査会が設置される今日、首相のリーダーシップを強化する〈公選制〉も俎上に載せるべきではないか。機は熟したと言えよう。


<永田町と国民世論の乖離>

 これまで首相は実質的に与党内だけで選ばれてきた。
自民党の単独政権では機械的に党の総裁が首相に選出され、それは議院内閣制であれば当然のことと認識されてきた。

 だが、首相誕生劇の舞台裏では、派閥間で激しい取り引きと駆け引き、さらには合従連衡が繰り返されてきたのだ。

 首相が永田町世論を背景に選出される結果として、「内閣の首長」は与党内で八方美人、少なくとも四方美人に振る舞わなければならなかった。経綸、す なわち政治的手腕を発揮するにも与党内の合意が必要とされ、そうしたコンセンサス政治が首相のリーダーシップを著しく阻害してきたのである。

 選挙で選ばれ た者は有権者にカオを向けるものだが、わが国の首相は国民ではなく、永田町の面々にカオを向けざるを得なかった。自民党総裁であれば、先ずは主流派のご機 嫌を損ねないことが肝要だったからだ。

 だが、いま、コンセンサスの形成を待っていられるほど、わが国には時間的余裕があるのだろうか。日進月歩、いや秒進分歩の勢いで目まぐるしく変わる社会情勢、そして世界におけるわが国の役割の大きさに鑑みれば、むしろ〈大統領的首相〉が求められる時代を迎えているのだ。

 もとより権限の強化を図ることは「強い首相」を創る第一歩。しかし、民主主義国家におけるリーダーの最大の〈武器〉は、実際に付与されている法的な 権限よりも、主権者たる国民の支持に他ならない。アメリカ大統領が強権を発動できるのは、長丁場の選挙戦を通じて国民の支持を得たからである。『論語』に ある「民信なくば立たず」とは、まさに現代政治の本質を切り取った一言であり、言い得て妙である。

 与党が国民世論に忠実に首相を選び出せば、問題はない。
衆院総選挙が「首相を選ぶ選挙」の色彩を強く帯びれば、各党は名実ともに党を代表するカオを 選ばなければならなくなる。

 だが、衆議院の選挙制度改革を経た今も、そうした兆候はまだ強く感じられない。衆議院の選挙制度を完全小選挙区制にして、かつ 一票の格差をなくせば、将来、首相公選と同じ効果をもたらすかもしれない。しかし、実際に有権者が自己の投票と首相の選任とを結び付けて考えるようになるには、一工夫も二工夫も凝らし、少なくとも数回の総選挙を経なければならないだろう。

 ましてや現行制度の下では、永田町世論と国民世論との間に温度差があ り、それを総選挙という装置で縮めることには限界があるので、国民世論に根ざしたリーダーの選出、つまりは首相公選が有力な選択肢として考えられる。


<公選制を実行したイスラエル>

 しばしば「議院内閣制と首相公選制は相容れないもの」と指摘されてきた。確かに、議院内閣制の下では議会が首相を選出する。中学や高校の教科書を繙 くまでもなく、民主主義国家の政治機構は大統領制と議院内閣制に大別され、国民が直接リーダーを選び出す仕組みは前者であるとされている。

 だが、珍しい例ではあるものの、イスラエルに首相公選の例を見ることができる。イスラエルの人口は概ね600万人。

 一院制を採っており定数は120 名である。そして、同国はもともと議院内閣制であったが、完全比例代表制の議会のため小党分裂が進み、首相のリーダーシップの発揮が容易でなくなった。か かる状況を打破し、首相のリーダーシップ強化を目指し、1992年から公選制が採られている。
議院内閣制に首相公選を採り入れたため、議会と内閣、とりわけ首相は大統領制以上に密接な関係を有する。

 首相公選というと、誰にでも立候補資格が与えられ、議会に責任を持たない者が首相の座に就くことが懸念される。

 しかし、イスラエルでは、国会議員し か首相になれないとか、大臣の半数は国会議員でなければならないといった規定がある。 国民5万人の推薦か議員10名の推薦のいずれかを得た国会議員でなけ れば、総選挙とともに行われる首相選挙に立候補できないとされている。 ただし、新人の場合はその政党の比例名簿第一位に記載されることを前提に、例外的に 立候補資格が与えられる。 しかし、議席を獲得できなければ、たとえ首相選挙で得票数が一番多くても「首相当選」は無効と化す。 この結果、第一党または第二 党の推す候補が首相に選出されやすいのだが、国民の信任を得ているという点では、大統領並のリーダーシップの発揮が可能となる。

 もう一つの懸念として、野党が議会の多数を占め、内閣不信任案が頻発されることが挙げられる。だが、首相を退陣に追い込むためには、議会の2/3以 上の特別多数が必要とされ、単純過半数での可決であれば、首相は議会解散権を発動できる仕組みとなっている。無責任な不信任案の提出・可決は自らのクビを 絞めることになりかねず、野党も世論の推移を見て判断せざるを得ないというわけだ。

<独裁色を弱めたい大韓民国>

 西に公選首相のリーダーシップを可能にした国があれば、東には行き過ぎたリーダーシップに歯止めをかけようとする国もある。韓国では大統領制が採ら れ、大統領は国民によって直接選ばれている。 金大中大統領が突如訪朝し、金正日総書記と電撃的な首脳会談を行ったことは、まだ記憶に新しい。こうして自由 自在に国政のハンドルをきることができるのも、国民によって直接選ばれているからである。

 その一方、強すぎる大統領権限に対する警戒感も根強い。アメリカでは、確かに大統領には強権が与えられているが、連邦議会にはそれを抑止する権限が 与えられている。 いわゆる〈均衡と抑制〉の原理がうまく作用しているのであるが、韓国の場合、法的な権限に加え、現実には大統領が与党の党首を兼ねている ため、両者の関係が著しく不均衡になっているとの指摘がある。このため、現行の大統領制を見直して、議院内閣制を導入すべきだとの意見もある。 事実、3年 前の大統領選挙に際して、金大中氏と自民連の金鍾泌氏の政策合意の中で、内閣制への移行が謳われている。もっとも、安全保障の観点から、韓国には強力な大 統領が必要だとの理由により、世論の大勢は内閣制支持に傾いていない。

 確かに国民から直接選挙された者が大統領として君臨し、経綸を実行することは一つの統治形態として考えられる。 一方で、同じく国民が選んだ議会が軽 視されることは、民主政治の観点から許され難いことであろう。自民党の亀井静香政調会長は「日本人は独裁者を好まない」と指摘したが、韓国大統領のような権力者は、日本の政治風土に馴染まないかもしれない。 だが真理は中間にあるもので、日本の首相と韓国の大統領の中間的に位置する首相こそ望まれるのではないか。 問題はサジ加減である。

 わが国に首相公選制を導入するとしたら、現行憲法の枠内では不可能である。自民党の総裁予備選挙は投票を党員に限定している点で公選制とは呼べない。 また、民主党の代表選挙は1,000円を払えば誰でも投票権を持つが、1,000円にしろ財産的な対価を要求する以上、これも公選制に当たらない。国 民であることが選挙人の必要十分条件であることが、首相公選制の本質である。

 では、現行憲法のどこを改正しなければならないのか。憲法論議というと第九条ばかりが注目されるが、拙稿では首相公選制を導入するため、はなはだ粗削りながら、主な箇所に関して以下のような試案を作成してみた。なお、カッコ内は現行の規定である。

第6条 [略] 1. 「天皇は、国民投票による指名に基づいて、内閣総理大臣を任命する」 (天皇は、国会の指名に基づいて、内閣総理大臣を任命する) 2. [略]

第7条 1.-3. [略] 4. 「国会議員の総選挙及び内閣総理大臣の指名の国民投票の施行を公示すること」 (国会議員の総選挙の施行を公示すること) 5.-10. [略]

第41条 「国会は、国の唯一の立法機関である」  (国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である)

第65条 「行政権は、内閣総理大臣に属する」  (行政権は、内閣に属する)

第66条 [略] 2. [略] 3. [削る]  (内閣は、行政権の行使について、国会に対して連帯して責任を負ふ)

第67条 「内閣総理大臣は、国会議員70人以上の推薦又は投票人の資格を有する国民100万人以上の署名を得た国民の中から国民投票により、これを指名する。 ただし、内閣総理大臣は、衆参いずれかの議院に議席を有する者でなければならない。  (内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、これを指名する。この指名は、他のすべての案件に先だって、これを行ふ)

2. 「内閣総理大臣の任期は、4年とする。ただし、衆議院解散の場合は、その期間満了前に終了する」  (衆議院と参議院が異なった指名の議決をした場合に、法律の定めるところにより、両議院の協議会を開いても意見が一致しないとき、又は衆議院が指名の議 決をした後、国会休会中の期間を除いて10日以内に参議院が、指名の議決をしないときは、衆議院の議決を国会の議決とする)

3. 「投票人の資格、投票の方法その他内閣総理大臣の指名の国民投票に関する事項は、法律でこれを定める」 第69条 「内閣は、衆議院で総議員の2/3以上の多数で不信任の決議案を可決したときは、10日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職しなければならない」

(内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、10日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職しなければならない)

第70条 「内閣総理大臣が欠けたとき、又は衆議院議員総選挙が行われるときは、内閣総理大臣を指名する国民投票を実施しなければならない」

(内閣総理大臣が欠けたとき、又は衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集があったときは、内閣は、総辞職をしなければならない)

第73条 「内閣総理大臣は、他の一般行政事務のほか、左の事務を行う」  (内閣は、他の一般行政事務の外、左の事務を行ふ) 1.-7. [略]

 まず、首相公選論の是非が論じられる際、元首と見なされている天皇との関係が問題視されやすい。仮にわが国に大統領制を採り入れた場合、天皇制と両 立し得るかという議論がある。われわれは両立しえると考えるが、かかる議論にも配慮し、試案では、首相選挙への立候補資格として、国会議員70人以上の推 薦又は選挙権を有する国民100万人以上の署名を首相への就任条件として、国会に議席を有することを挙げた。 つまり、現行の天皇制を前提に、首相公選制の 検討を試みたのである。

 国会議員の推薦の「70人以上」の根拠としては、衆参いずれか、あるいはその両方に一定の支持基盤があることが望ましいと考えたからである。この数 字は全国会議員の1割近くに相当し、また現行の国会法では予算関連の議案提出要件として、衆議院においては50人の、また参議院においては20人の賛同者 を挙げていることも参考にしている。選挙権を有する国民の「100万人以上」の根拠としては、選挙権資格を有する国民の概ね1/100に相当するからである。

 こうした立候補要件を設けることにより、候補者の乱立を防止できると考えられる。

 また、試案第69条にあるように、衆議院の総議員の2/3以上の多数で内閣を総辞職に追い込むことができる点では、紛れもなく議院内閣制を前提にし ている。大統領制であれば、議会に罷免権は認められても、政治的責任を追及して総辞職に追い込むことは認められないのが一般的である。

<試案の問題点>

 もとより本試案は発想を転換するための粗削りのものであり、多くの法的矛盾、あるいは検討課題があることは否めない。 例えば、国民投票で指名された 者が総選挙で落選した場合には首相に指名されないのであるが、この場合、いかなる代替措置を講じるべきかは引き続き検討を要する。 解散から総選挙までの短 期間で有権者100万人の署名を集めることも、決して容易ではない。このため、打開策の一つとして、インターネットなどの活用が議題としてあがってくる。

 国民から直接選ばれた首相は国民に対して責任を負うが、衆議院が不信任決議案を可決することによって、内閣を総辞職に追い込めることを懸念する声も ある。この点については、可決要件を2/3以上に引き上げているが、さらなる検討が必要とされる。 また、選挙で選ばれた者に天皇が任命行為を行うことにつ いても、その矛盾を指摘する意見がある。

 さらに大きな問題は、首相と内閣との関係である。現行憲法においては、内閣の職務に関する記述が多く見られるが、これらをどこまで内閣総理大臣の職 務に置き換えられるかは悩ましいところである。言い換えれば、独任制と合議制の線引きをし直さなければならず、最高裁判所長官の任命、天皇の国事行為に対 する助言と承認、臨時国会の召集、決算の提出などは内閣の職務とされてきたが、どこまで首相が単独で行えることにするのかについても、引き続き検討を要す る。

 本試案においては、あくまでも現行の議院内閣制を前提に検討を加えてきたのであるが、公選制の導入を図る際には、以上のような問題についても十分吟味する必要がある。

<予想される効果>

 首相が国民から直接選ばれ、国民の支持に基盤を置くことにより、首相の視線は当然のことながら国民に向けられることになる。いわゆる「永田町の論理」だけで政策が決定されることも少なくなる。「国民不在の政治」のレッテルも払拭できる。 首相は緊張感を持って国政を担い、国民の支持を背景に勇猛果敢 に経綸を実行すること、つまりリーダーシップを発揮することが可能になる。 主権者であり選挙人でもある国民の方も、自覚と責任を持って票を投じるようになる。

 再述するが、石原都知事のリーダーシップの源泉は、都民の圧倒的支持である。 また、首相公選制が実現されれば、これは日本全国どこに住んでいても1 票は1票であるので、究極の1票の格差是正策となる。首相も有権者全体に対して責任を負う形となり、地域エゴを反映した政策は実現されにくくなる。 換言すれば、ある地域にとって有利な政策が日本全体にとって必ずしも望ましいものでない場合でも、今までは有力政治家同士の妥協という形で採用されてきたケース が散見するが、首相公選制の下ではかかる事態は飛躍的に少なくなるはずだ。

 首相の地元であってもあまりに優遇されれば、全国民からの反感を招くため政治家の行動様式にも歯止めが働くと予想される。 つまり、政策の個別論に入ると、地域、あるいは業界の利害に絡んで遅々として進まなかった日本の構造改革が、全 国民に直接的に支持される形で進展する可能性がある。 もっとも、首相公選制が導入されても、政党政治が崩壊するわけではない。立候補要件が設けられている以上、結果的に政党の代表者が首相に選ばれる可 能性が高い。

 しかし、その選ばれ方が、従来の「永田町の論理」ではなく、「国民の論理」で選ばれることになるのである。 このため、各党は単に党内で多数の 支持を得られる党首ではなく、国民の支持を受けられる党首を選ばなくては政権党の座を獲得できなくなるのだ。 従来の派閥政治も大きく変化し、ポスト配分のための派閥は、首相公選制の導入によって、文字通り「党のカオ」を選ぶための集団と化すことになる。そ うでなければ、その政党は国民の支持を失い、間違いなく衰退していくことになるからだ。 たとえ地元への利益誘導に勤しんでも、首相選挙で勝利をおさめられ なければ、早晩その議員の影響力は弱まってしまう。首相公選制の導入で、政党も派閥も、大きく改革され、まさに「政党の近代化」が推進されるのだ。

 逆にいえば、首相公選制は政治家全体の「資質」にも変化をもたらすということだ。 首相公選システムの下でリーダーを目指す政治家は、これまで以上に 確固たる政策ビジョンと国際感覚、そして何よりも優れたコミュニケーション能力を国民から求められるからである。 さらに、「永田町の論理」ではなく、「国 民の論理」で選ばれた首相は、組閣にあたっても実質的な人事権を行使することが可能になるし、その責務が課せられる。 大臣や副大臣も派閥均衡や年功序列で はなく、文字通り「能力」と「適材適所」というコンセプトに基づいて選任される。 こうした状況の中では、いわゆる利益誘導型の政治家は影を潜めざるを得 ず、わが国においても40代の首相誕生の可能性が高まるだろう。

 今日まで首相公選論が唱えられてきたにもかかわらず、必ずしも現実的だと思われてこなかったのは、具体的な制度論が論じられなかったからである。このため、拙稿ではそうした点を多分に意識して、具体的な制度改革の試案を検討してみた。もとより粗削りであり、法律家の目からは稚拙であろうが、今後の憲 法改正論議に一石を投じることになれば幸いである。

 本稿の執筆に当たり、武蔵野女子大学助教授(日本政治)の本田雅俊氏に多大なご協力を頂いた。


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