2012年3月1日:パート2

 午後7時過ぎ。 高崎駅構内で、東京行きの新幹線の出発を待っている。 本日の午後3時過ぎ。 高崎地区担当の秘書が急死した。 知らせを受けて、言葉を失った。 しばらく、茫然自失状態に陥った。 先週、会った時は、あんなに元気だったのに! 他の地元スタッフは、もっとショックを受けていた。 何しろ、一昨日の会議で顔を合わせているのだ。

 東京駅で夕方の新幹線に飛び乗り、高崎市内の秘書の自宅に急行した。 親族の方々、隣組の人たちが、大勢集まっていた。 「一太さん!長い間、お世話になってありがとう!」「いや、お世話になったのは、私のほうです。半身をもがれた気持ちです!」 お線香を上げ、「顔」を見せてもらった。 眠っているような、穏やかな表情だった。

 亡くなった秘書は、まだ49歳。 初めて会ったのは、最初の参議院選挙の数ヶ月前だった。 以来、16年間、山本事務所のスタッフとして、地元の政治活動を懸命に支えてくれた。 過去3回の選挙はもちろん、難局を一緒に乗り越えて来た。 苦しい場面で、何度、助けられたか分からない。 

 「政治家と秘書」というより、自分にとっては「頼りになる腹心」であり、「身内(家族)」だった。 「大切な同志」であり、「数少ない親友」であり、政治家山本一太の「最大の理解者」だった。 

 高校時代は、応援団に所属していた。 ちょっぴり不良だった。 体育会系で、言葉はちょっと荒っぽかった。 でも、根は優しかった。 熱血漢で、義理人情に厚く、ちょっと照れ屋の「典型的な上州男児」だった。 年配のひとたちからは可愛がられ、若手からは兄貴分として慕われた。 事務所のムードメーカーで、スタッフ間の潤滑油の役目も果たしてくれていた。 

 あらゆる意味で、「最高の地元秘書」だった。 選挙の遊説隊長としても、多分、日本一だと思う。 その「右腕」をまさかこんな形で突然失うなんて、夢にも思わなかった。 断腸の思いだ。 代わりの務まる人間は、どこにもいない。 一体、どうやって、この穴を埋めたらいいのだろう?!

 東京から高崎に向かう新幹線の中で、いろいろなことを思い出した。 様々なシーンが蘇って来た。 涙がポロポロ、こぼれた。 人に見られないように、ずっと窓のほうを向いていた。

 それでも、この悲しみ(喪失感)を乗り越えて、前に進まねばならない! 7人の大事なスタッフと力を合わせて!!

 あ、そろそろ出発時刻だ。 ホームに上がらないと。 山本一太、しっかりしろ!! 
 

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