2008年3月16日

 午後5時30分。 高崎から東京に向かう列車の中でパソコンを起動させた。 藤岡地域での挨拶回りが当初のプランより早く終わった。 あまり欲張らず、予定より早めの列車で東京に戻ることにした。 今日は、昨年の参院選挙の前に誕生した「若手応援チーム」の31歳の会長と、中核メンバーの自宅を訪ねた。 うーむ。 全員、「奥さんが美人」というのは何故だろう??
 
 神社やお祭りやイベントで、大勢の有権者に会った。 選挙まであと5年以上あるのに、手を振る人を見つけると走って行って握手をしてしまう「政治家の性」が悲しい!(笑) 「オレは一体何をやってんだろうなあ」とつぶやくと、地元担当秘書が言った。 「いや、一太さん。だから(群馬県史上初の)53万票なんですよ!」
 
 さて、亡父の話を続けよう。 前回のブログで「山本富雄は(実は)激しい性格だった」と書いた。 そりゃあ、そうだ。 全日本のコーチまで務めたスキーヤー(体育会系)だったのだ。 あの時代に「将校に喰ってかかる」という暴挙をしでかした旧制中学時代から、3期で県連の幹事長を奪い取った県議時代まで、行動力やバイタリティーでは「図抜けた存在」だった。 野党時代の参院自民党幹事長として「政治改革法案」を参院で否決し、森嘉朗幹事長(当時)にスゴいタンカを切った。(*何と言ったかはちょっと書けない!) 特に忘れられないのは、亡くなるまでの最後の3ヶ月。 これはもう壮絶だった。 あれほどの「死に様」を見せつけられなかったら、亡父の後を継いで「選挙に出る」という決断は下せなかったと思う。
 
 農林大臣になった時も、新聞の紙面では「銀髪(ロマンスグレー)、整った顔立ち。参院三塚派の世話役的存在。ヤマトミさんの愛称で仲間から慕われる。野党時代に国対委員長として汗をかいた実績を安倍晋太郎会長が高く評価し...」みたいに紹介されていた。 たしかに、参院では常に斉藤十朗議長を立て、村上正邦国対委員長をなだめ、地元では「生涯の師」と仰いでいた福田赳夫元総理の補佐役に徹していた。 参院自民党でも、自民党群馬県連でも、「緻密な計算と気配り」によって、自らの政治活動に対する「回りのサポート態勢」を維持していた。 中央でも地元でも、常に大勢の人々に気を遣い、バランスを考えて行動していた。
 
 え? 中央でも選挙区でも、山本富雄と山本一太は「スタイルが全然違う」じゃないかって?? 結果としてはそうかもしれない。 が、「父親のDNA」を引き継いだ自分にはよく分かる。 政治家・山本一太は、政治家・山本富雄が「本当にやりたかったこと」(=やりたくても出来なかったこと)を実践しているのだと。 他の人には、けっして分からない。
 
 あ、もうすぐ東京のアナウンス。 このブログを書きながら、久々にオヤジのことを思い出した。 本当は身内のことを褒めたらいけないんだけど、「命日」だから許してもらうことにしよう。(笑) 「気難しくて、厳しい、自分勝手な」父親だったが、本当に「カッコいいオヤジ」だった。 農林大臣にも、自民党幹事長にもなれそうもないが、(オヤジが生きていたら)きっとこう言ってくれたと思う。 「前回の選挙は見事だった。オレの出来なかったことをやってくれた。お前はお前のやり方で頑張ったらいい。スキーの基本は直滑降なんだから!ただし、一太、いいか。最後まで中途半端なことはするなよ!!」
 
 
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