1月4日




 午前6時55分。高崎に向かう新幹線の車中でパソコンを開いた。今日は、高崎駅東口で新世代遊説カー(「一太号:バージョン2」)をデビューさせる日だ。ちょっと眠いけど、気合いはバッチリ。ここ数日は、すっかり「選挙モード」に切り替わっている。本日から国会の始まる1月下旬までは、連日、地元の新年会や賀詞交換会をハシゴする。この2週間で、1万人近い人に「直接」会える計算だ。

 

 まるでJーポップの歌詞みたいだけど、疲れたり、迷ったりした時は「会えなくても、いつも心の支えになっている友人たち」のことを思う。「あの人があんなに頑張っているのに、オレがくじけるわけにはいかない!」みたいな。(笑)これって、距離や時間というコンセプトには縛られない感覚だ。

 

 ふと、思うことがある。政治家山本一太の嗅覚は間違っているだろうか、と。この5年間(その前だってそうだけど)、毎週のように故郷に戻り、地元の人々と接してきた。小泉劇場以来、同じ1票を持つ有権者の「独立自尊度」は増幅されている気がする。たとえば、前回の前橋市長選挙や中之条町長選挙では、組織力で圧倒的に有利だと見られていた現職が破れるという波乱が起こった。誰もが現職の勝利を疑わなかったこの2つの選挙で、自分は(最初から)「今までと違う流れ」を感じていた。

 

 保守王国で続けて起こったこの「番狂わせ」から得られるレッスンは2つある。ひとつは、「無党派層」が本格的に動いたら「従来の組織票」は吹き飛ばされてしまうこと。もうひとつは、有権者が候補者のバックや肩書きではなく、候補者自身の魅力や潜在力に反応する、すなわち、候補者の個性やメッセージを投票の判断基準にするという事実だ。もちろん、首長選挙と議員選挙では構図が違う。が、変わりつつある「政治意識」は、あらゆるパターンの選挙に影響を与えていくに違いない。

 

 断っておくが、自分は「組織票が役に立たない」などとは言っていない。選挙を戦う上で「組織」を作ることは重要だし、「既存の組織」に働きかけることは、選挙の「イロハ」と言っていい。ただ、(たとえ自らの後援会であっても)国政報告に集まってくれた方々を、「組織票」などと位置づけること自体が「失礼な話だ」思っている。しかも、従来の「組織票」の機能(組織の長が指示すれば、それがそのまま「票」に繋がるみたいな感覚)は、ほとんど失われていると考えたほうがいい。

 

 あ、もうすぐ高崎駅。続きは次回のレポートで。

 

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