10月30日:パート2




 午後3時25分。高崎駅から東京行きの新幹線に飛び乗った。午後2時から高崎のホテルで行われた元群馬県スキー連盟会長の叙勲祝賀会に出席。現役のスキーヤーである78歳の会長と夫人の横で祝辞を述べた。やぱり群馬県スキー連盟の会長を務めていた父親が生きていれば、ちょうど同じ年ということになる。

 

 亡父は若い頃、スキー選手として活躍した。国民体育祭(国体)は常連。全日本選手権の滑降競技で2位に入賞したこともある。現役引退後は、全日本チームのコーチも務めた。祝賀会の会場には勲章を授章した元会長をはじめ、父の昔のスキー仲間がかけつけていた。70歳を超えても、背筋がピンとして、元気な方々が多かった。さすがは、スポーツマンだ。

 

 山本一太も草津温泉の老舗旅館の息子として生まれた。当時の草津は温泉とスキーのメッカだった。小・中学校時代の冬の体育の授業は、学校の裏山にあるスキー場で行われた。父親のように「競技スキー」にはいけなかったが、大学時代も、社会人になってからも、毎冬のように故郷でスキーを楽しんでいた。冬になると、東京から大勢の友人たちが草津の実家(ホテル)に押し掛けてきた。「スキーの思い出」は青春の1ページにしっかりと刻まれている。「気分はいつも直滑降」というブログのタイトルは、もちろん、スキーの「直滑降」からきている。

 

 来賓のスピーチを聞きながら、子供の頃、亡父が機嫌のいい時によく歌っていた「スキーの替え歌」を思い出した。きっと当時のスキー関係者の間では「有名な歌」だったに違いない。全日本チームのコーチとして(?)、ヨーロッパ遠征に女子チームを連れて行った時にも、「むこうの酒場で歌ったんだよな」と話していた。スキー仲間が集まって盛り上がると、必ず登場した「数え歌」だったようだ。ええと、こんな歌詞だった。

 

1.ボクのスキーはウイスキー。街の酒場をスラローム。旗門(ポールのこと)、旗門に引っかかり、前制動(?)(ボーゲンのこと?)でダウンヒル。




2.ボクはヒュッテのコック長。ジャンプ料理は得意だが、鯉(恋)の料理はテレマーク。彼女がいなくて出来ません。




 改めて思い出してみると、あの頃のオヤジは(とてもコワい存在だったが)、本当にカッコよかった。あ、車内販売のカートが回ってきた。この続きは次回のレポートで。

 

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