10月20日:パート2




 政治家には、それぞれ「選挙区の事情」というものがある。「これだけは譲れない」という個々の政治信条もある。様々な人間関係や支持団体の思惑に縛られ、心のままに動けない「苦しい局面」にも遭遇する。数々の「政治的な制約」と戦いながら、かつライバル(政敵)と対峙しながら、ひとりひとりが議員として生き残るための道を模索している。「国民の代表であり続ける」ことは、並大抵のことではない。

 

 政策に対する考え方は違ったとしても、郵政民営化法案に反対した政治家の方々には、それぞれの信念があり、事情があり、そして覚悟があったと思う。だからこそ、自分は(直滑降レポートでも)「郵政造反組」という表現は使わない。「郵政反対組」という言葉を用いることにしている。

 

 「反対グループ」の中には、いったんは反対票を投じた法案に賛成した人々もいた。政治家として苦渋の(それこそ屈辱的な)決断だったに違いない。彼らの立場(理屈)からすれば、郵政の問題で「自民党を離れる」ことは不本意で不条理なことだったかもしれない。さらに言えば、(政治資金に困らない一部の議員を除いて)「政党助成金」を受け取れるかどうかということは、多くの「反対組メンバー」にとって、死活に関わる問題だろう。政治資金パーティーをほとんどやらずに事務所を切り回している自分には、そのことがよく分かる。

 

 郵政法案に反対して自民党を離れた議員たちを「復党させる」動きが加速している。今月末には、一気呵成に「復党の流れ」が固まりそうな気配だ。「慎重論」を唱えている中川秀直幹事長が「筋を通そう」と孤軍奮闘しているものの、党内での議論の焦点は、すでに「復党を認めるかどうか」ではなく、「復党の条件をどうするのか」「復党した場合の当該選挙区の調整をどうするのか」「党として国民にどう説明するか」ということに移っているという人もいる。(*真偽のほどは分からない。)「復党」を渇望していた議員たちにとっては、失うことの出来ない「チャンス」だ。「ようやく復党が決まりそうなのに、この微妙な時期に余分なことを言ってくれるな!」「今回の問題には自分たちの政治生命がかかっている。異論を唱えるヤツは許さない!」と思うのは(政治家として)当然かもしれない。某大物議員の「恫喝発言」は、こうした人々の思いを代弁する(代表する)言葉だった。きっとそうだ。

 

 自分だって、10年間、政治家として生きてきた。彼らの苦しい事情や思いが分からないとは言わない。出来ることなら、「復党問題」については書きたくない。誰だって「恨まれる」のは嫌だ。ましてや、個人的には「情」の部分もある。野田聖子氏や城内実氏には「思い入れ」があった。同い年の荒井広幸氏のことは、今でも親友だと思っている。が、しかし、「無条件、即時、一括の復党」などという噂まで流れるこの状況の中で、山本一太が全く声をあげなかったら、政治家としての「一貫性」を疑われる。「恫喝されたから口を閉ざしたのか」と勘違いされてしまう。ここ数年の「直滑降」レポートを読み返してもらえば分かる。ここで何も言わないことは、これまでの政治活動を否定することに他ならない。「政治信念を曲げた」とか、「直滑降からエッジをきかせたスラロームにスタイルを変えた」と批判されても反論出来なくなってしまう。

 

 誤解のないように言っておくが、「未来永劫、郵政法案に反対した方々の復党を認めるべきではない」などとは一度も言っていない。小泉前首相の語録ではないが、政治は「生き物」だ。政治情勢は常に変わる。現在の政党の枠組みだって、どこまで続くかは誰にも分からない。加えて、郵政民営化に反対したメンバーには(誰にも)何の恨みもない。「反対組」の中には、自分より明らかに優秀な若手政治家もいる。かつて尊敬していた先輩議員も含まれている。

 

 ただし、自民党が昨年の総選挙で政権公約(マニフェスト)の中心に掲げた「郵政民営化」に反対して党を離れ、賛成派の公認候補者と戦った政治家たちを「復党させる」というなら、「あの選挙で一票を投じた有権者(国民)に説明の出来るプロセスを踏むべきだ」と言っているのだ。そこのところを曖昧にしたままで「反対した議員」を受け入れるということは、昨年の総選挙の正当性を否定することに繋がる。国民は「郵政民営化を進める」という旗印に賛同して、与党に300議席を与えた。そのことをけっして忘れてはいけない。

 

 仮に、(参院自民党が主張する?)「即時・無条件・一括」で郵政反対組の復党を認めるなどという方針が打ち出されたら、各方面から「あの300議席はインチキだった!!」と批判されかねない。もし「復党は参院選挙で票を稼ぐため」という以外の説明が出来ないとしたら、国民の心は自民党政権から永遠に離れてしまうだろう。ましてや、「自民党は改革政党になった」という言葉を信じて自民党支持に回った人々は、「自民党は変わってないじゃないか。信じていたのに裏切られた!」「もう2度と自民党には投票しない!」と心に誓うだろう。

 

 亡くなった後藤田正晴氏が「情と理」という名著の中で、「社会の弱い部分に光をあてるのが政治の役割だ。その意味で政治家は(時として)『理』よりも『情』を優先させなければならない」という意味のことを書いていた。人間社会は「情」で成り立っている。が、今回の「復党問題」に過度の「情」を持ち込んではいけない。「党利党略」だけでとらえてもいけない。この問題で「情」を優先させたら、政党としての存在価値を疑われる。大袈裟でなく、「日本の政党政治」が前世のシステムに戻ってしまう。曖昧で不透明な解決が許された時代はとうに終わっている。政治に対する国民の意識は明らかに昔と違う。

 

 小泉政権が残した最大の功績のひとつは「政治改革」だった。「改革政党」でなくなった瞬間、自民党という恐竜の「延命装置」が外れる。せっかく安倍政権という新たな推進力(というか最後の希望)を得たのに。あ、パソコンの電池が切れかかっている。この続きは「復党問題を考える:その2」で。

 

追伸:埼玉県選出の柴山昌彦衆院議員から電話があった。会話の内容は書かない。が、彼にこう伝えた。「柴山さん。政治家は皆、それぞれ選挙で選ばれた国民の代表だ。その点では皆、同等ですよ。政治家が自らの信念にしたがって発言し、行動するのは当然のことだと思う。意見が違うから政治が成り立つわけでしょ。自信を持って、堂々と持論を貫いたらいい!」




 柴山氏には「信義のかけら」がある。政治家としての「確固たる理念」がある。今後の展開によっては、「直滑降ブログ」で全面支援するつもりだ。

 

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