午前11時。都内某所でハマコー先生に会った。相変わらずエネルギッシュだった。「政治というのは『躍動美』だ。仲間を作るのもいいが、最後に必ず裏切る人間が出てくる。誰が何といおうと(たった1人でも)自らの信念を貫くという気持がなかったらいけない。まあ、頑張りなさい!」このフレーズには、ちょっとしびれてしまった。

 

 午前8時30分。都内の喫茶レストランでマスコミ関係者と打ち合わせをしていたところに、携帯が鳴った。議員会館事務所の秘書からだった。昨晩、某週刊誌から再び「取材依頼」のファックスが届いたらしい。さっそく、同じ記者の携帯を鳴らした。こんな会話を交わした。「私たちの取材で新たな事実が見つかりました。今日中(締め切り?)に会ってお話し出来ればと思うのですが…」ということだった。丁寧な口調だったが、少しムッとして、「え?また同じ話ですか? 時間は取りますけど、なぜ、そこまでこだわるんですか? そんなに個人攻撃しなくてもいいじゃないですか」と答えた。「いや、これは個人攻撃ではありません。あくまで公人に対する取材です」「分かりました。とにかく話を聞きます。秘書に時間を取るように言っておきますから。でも、取材の内容はどんなことなのか。ちょっと教えてください。」

 

 これほど社会的影響力のある有名週刊誌が、2週連続で(しかも同じネタで?)「山本一太の記事を掲載する(?)」なんて、極めて異例のことだと思う。20年前にやらかした失敗とか、細かい経歴の整合性とかをマスコミにあれこれと突かれるのは、大臣とか党幹部とか、要職に就いた政治家にだけ起こる話だと思っていた。自分はマイナーリーグの参議院議員で、しかも何のポストもない「ちびっこ議員」だ。万一、同じテーマで2度も(しかも2週連続で)取り上げられることになったとしたら、まるで「大臣級の扱い(?)」という気がする。(笑)うーん、ちょっと考えられないなあ??

 

 某記者とは今晩10時に約束を取った。とにかくよく話を聞いて、出来るだけ正直に説明したいと思う。(それにしても、『20年前』のことですから…全部のエピソードを思い出すのは無理だ。)「ところで、その後の取材で判明した新しい事実って、何ですか?」と聞いてみた。「詳しくは会ってから」ということだったが、概要は教えてくれた。新事実のひとつは、どうも「経歴の記載が不正確ではないか」という話のようだ。

 

 自分は80年代の初めに米国ジョージタウン大学の大学院を卒業した。学部は「スクール・オブ・フォーリンサービス」という。もっと正確に言うと、Master Science of School of Foreign Service」というマスター(修士号)を取得した。「スクール・オブ・フォーリンサービス」は、国際政治や国際関係を学ぶスクールとしては(特に米国では)かなり有名だ。外交や国際関係の分野では、タフト大学の「フレッチャー・スクール」とか、コロンビア大学の国際関係のスクールなどと並んで、全米で5本の指に入る名門スクールといっていいだろう。実際、「スクール・オブ・フォーリンサービス」の卒業生には米国の外交官が多く名前を連ねている。あのクリントン前米国大統領も、ジョージタウン大学(たしかスクール・オブ・フォーリンサービス)の卒業生だ。

 

 政治家としての経歴にジョージタウン大学院のことを書いた際、「スクール・オブ・フォーリンサービス」のうまい日本語訳が見つからなかった。そのまま外交サービス学部というのも変だし、外交大学院というのも馴染まない。実際のプログラムの中身から考えれば、「国際関係学部」か、「国際政治学部」というのが一番近いと思った。特に、自分が勉強していた内容を考えると「国際政治学部」というのが最も分かりやすいと判断して、経歴に「ジョージタウン大学院国際政治学部」と記した。最初はカッコ書きで右横に「スクール・オブ・フォーリンサービス」とつけたりしていたが、長ったらしいので途中からやめた。

 

 某記者によれば、米国ワシントンDCのジョージタウン大学の事務局に連絡して、自分が卒業した年度を調べてたそうだ。(*そこまでやらなくてもいいじゃないですか!(笑))「ちゃんと卒業の記録はありました。ありましたが、国際政治学部(Department of International Politics)という学部はないという返事でした」とのこと。そりゃあそうだ。「国際政治学部」は直訳ではない。この言い方が「スクール・オブ・フォーリンサービス」の内容を最も分かりやすく示す表現だと思った。だから、そう書いた。過去11年間、自分がジョージタウン大学に(しかも「スクール・オブ・フォーリンサービス」に)留学していたことを知っている多くの人間から、「国際政治学部」は「訳としてそぐわない」といったクレームや意見をもらったことは一度もない。

 

 ジョージタウン大学には、たしか「Government(行政)」のスクールもあった。ここにも「政治学」のクラスはあったが、外交や国際政治、国際関係といえば、「スクール・オブ・フォーリンサービス」がジョージタウンの輝く象徴だった。ふむ。いろいろ考えると、「国際関係学部」と書く手もあったかもしれない。が、これも直訳だと「School of International Relations」ということになる。やっぱり「国際政治学部」はそんなに違和感がないな。もっと正確に言うと、「スクール」(School)を「学部」(Department)と訳していいものかどうか? 同じ大学院を卒業した知人が経歴にどう書いているか、ちょっと確認してみよう。(そのまま「スクール・オブ・フォーリンサービス」と載せている気がするなあ。)

 

 もう一つは、やはり朝日新聞での2ヶ月に関わることらしい。何でも、同じ時期に福島支局に勤務していた人物から話を聞き、その中で「朝日新聞入社の経緯?」について何らかの疑念(?)が生じたとか、生じないとか…。これは実際に聞いてみないと分からない。が、ちゃんと筆記試験も、論文試験も受けて入社した。きっと「ビリから2番目くらい」で合格したに違いないが、この時は一生懸命勉強した。記者見習いとしては「落第生」だったが、文章力が全くなかったわけではない。入社前に通った「論文スクール」の成果は、「直滑降」レポートに少なからず生かされていると信じている。

 

 当時、福島支局に勤務していたどの人物にインタビューをしたのかは分からないが、当然、「いやあ、あいつは全く使いものにならなくて…」とか、「トラブルだけ起こしてサッと辞めていった」とか、おっしゃったに違いない。回りの先輩記者にはさぞかし迷惑だったろう。この2ヶ月間に数々の失敗をしたことは事実なので、隠しようがない。(ああ、恥ずかしい!)以前のレポートに書いたように、米国の大学院を出たくらいで「いい気になっていた」バカな20代の若者だった。

 

 なにしろ、赴任した日から「辞めよう」と思い続けていた。父親に対する反発から「記者になってやる」などと意地になって試験を受けたこともあり、支局長に「やめます!」なんてなかなか言い出せなかった。加えて、「就職するなら、オレの秘書になってくれ!」と言っていた亡父(また亡母も)は、新聞記者になったことが(実は)かなり嬉しかったようだった。今だったら、翌日に支局長と会って、「最初から中途半端な気持ちで来ました。能力も不十分ですし、あまり向いていないと思いますので、キッパリ辞めさせていただきます!」と言ったに違いない。が、ハッキリ言い出せないまま、ずるずると2ヶ月が経ってしまった。

 

 夕方。高崎に向かう車の中で、福島支局時代にお世話になった先輩記者に電話を入れた。悩んでいる自分をいつも激励してくれたハートの温かい先輩だった。「あ、00さん。お久しぶりです。どうも福島支局時代の私の数々の失敗が、某週刊誌に出るらしいんです。」「え、そんなこと書かないだろう。でも、いろいろあったよなあ(笑)」「いや、支局の皆さんに迷惑をかけてしまいました。あの時は毎日サツ回りでバタバタしてました。まともな情報なんて取れる状態じゃなかったですね。」「うん、最初の2ヶ月なんて、何も分からないよ。オレもそうだった。」

 

 電話で談笑しながら、20年前の「数々の愚行」が甦ってきた。福島支局に赴任する前に行った四ッ谷のヘアーサロンで頭を(生まれて初めて)「パンチパーマ」にされ、そのまま赴任したこと。(ああ、思い出すのも恥ずかしい!先輩記者も思い出して笑っていた。)交通事故の現場に行って写真を撮り、支局に戻った後で、フィルムが入っていなかったことに気がついたり(*ああ、顔から火が出そうだ)、早朝に「ああ嫌だ!」と思いながら車を出そうとして建物の角にぶつけたり(*わざとじゃありません)、火事の取材に行って机を運び出すのを手伝っているうちに記事が書けなくなったり(*半分は記事を書くのが嫌だったのかも)、体調を崩して診療所で点滴を打ってもらったり(どちらかと言えば精神的なプレッシャーだった?)、仮病を使って(*ああ、最低だ)仕事を休んだり…。特に恥ずかしかったのは、警察の暴力団担当を「マル棒」(*丸い棒を使うから)だと思っていたこと。(*これにはデスクが大笑いしていた。)

 

 それでも記事は幾つか書いた。ええと、印象に残っているのは「ミス福島」(だったと思う)に関する短い記事と、養豚場に向かうトラックから走行中に豚が落ちて大騒ぎになった記事くらい…かな。

 

 2ヶ月目のある日。「今日こそ、辞めよう!」と決心した。夕方(?)にポケットベルのスイッチを切り、しばらく「雲隠れ」することにした。(*何という無責任なヤツ!)あ、もう東京か。ここからの経緯については、今晩、某記者の取材を受けた後で、じっくり説明することにする。これまで誰にも話したことはなかったが、実は「亡くなった両親」に謝らなければならないことがひとつあった。いい機会なのでそのことを(ちょっと勇気がいるが)書こうと思う。

 

追伸:世の中に完全な人間なんていない。誰だって失敗する。たとえば、法律を犯したとか、人を傷つけたとかいうなら別だけど、20年前の「恥ずかしい失敗」(若気のいたり?)は「悪事」ではない。回りの人々には迷惑をかけてしまったが、自分にとっては「成長の糧」になった。だから、山本一太が「欠点だらけの人間」であることを否定したりしない。




 ただ、20年前に同じ支局にいた先輩記者から引き出した(?)「あいつはあんなにバカだった!」「こんな失敗をした!」という情報と、「卒業した米国の大学院の学部の日本語訳がおかしい」というストーリーを組み合わせただけで、業界トップの週刊誌が「2週続けて(しかも同じようなネタで)記事にする?」というのは、あまりに不自然な気がする。「政治的な背景がある」と考えるのが普通だろう。

 

 もう一度言うが、20年前の出来事で有力マスコミ(有名ライター)から批判されるなんて、通常は総理とか大臣とか、党幹部でなければ考えられない。繰り返しになるが、こんなポストも影響力もない「ちび議員」を「ここまで執拗に攻撃しなくてもいいじゃないか!」(笑)と思ってしまう。当然、こうしたネガティブキャンペーンは9月の総裁選挙と深く関わっている。この種の批判や中傷は9月まで続くだろう。それにしても、「いち参議院議員」の自分がこんなにいじめられるなんて…やはり総裁選挙は「最大の権力闘争」なんですねえ。

 

 午後7時40分。都内の喫茶レストランでパソコンと格闘している。午後8時から友人のジャーナリストと別の場所で食事をする。その後、午後10時から(再びこの場所で)某週刊誌記者の取材を受ける予定だ。さて、今回はどんな話が飛び出してくることか。記者とのやり取りは「直滑降」で詳細に書く。場合によっては、今晩も「小説家」をやらなければならないかもしれない。ああ、政治って、「嫌な渡世」だなあ。(笑)