国連の安全保障理事会とか、韓国大統領との会談とか、ここのところ堅いレポートが続いた。今回は少し柔らかいタッチの話にしよう。




 散歩の途中、妻と二人でふらりと立ち寄った都内某所のカフェ。明らかにロックファンのオーナーが経営する店だった。奥のソファー席に座った。ふと近くの棚に目をやると、1978年頃から90年代までの音楽雑誌(「ロッキング・オン」とか「ミュージック・マガジン」とか「ドール」とか)のコレクションがずらりと並んでいた。




 80年代の「ロッキング・オン」を手にとってパラパラとめくってみる。ロック・ミュージシャンに憧れていた頃の青春の記憶(?)が蘇ってきた。ふうむ。この場所に政治家や政治記者が来ることは絶対にないだろう。新たな隠れ家を発見した気分になった。ただし、BGMはもちろんロック。政策の勉強会や政局の悪巧みには使えそうもない。




 順序よく並べられた音楽雑誌コレクションの一冊(1990年の「ドール」)に「京都パンクロック・シーンとその歴史」みたいな特集記事があった。特集ページを熱心に読んでいた妻が、突然「うわあ、懐かしい!」と声をあげた。




 このレポートに書くのは初めてだと思うが、現在国連に務めているうちの奥さんは学生時代、女性ロックバンド(ポップバンド?)でギターを弾いていた。昔の演奏テープを聴かせてもらったことがあるが、お世辞にもウマイとはいえない。が、妻が作ったというオリジナル曲の中には、それなりにいい歌もあった。(ほとんど夫バカですね。)




 彼女が所属していたのは京都大学の軽音楽部。そこの先輩がロックバンド「ヴァンパイア」(京都では結構有名だったらしい)のメンバーで、その当時京都を中心に活動していたアマチュア・ロックミュージシャンを集めては「パンクロックのライブ」を熱心に主催していたらしい。(横文字ばっかりですみません。パンクは、パンクとしか書きようがないので。)この時期、京都大学の西部講堂(すでに取り壊されている)は、京都のロックミューシャン達にとってはライブの殿堂のような存在だったようだ。




 「ああ、こんなバンドもあった。この人も歌ってたっけ。」と一人で感慨にふける奥さん。この頃活躍していた京都のアマチュアバンドの幾つかは、その後、プロとしてデビューを果たした。その中には英国のミュージック・シーンに新風を吹き込んだあの「少年ナイフ」やメジャーで活躍した「ローザルクセンブルグ」(京都でやっていた頃は違う名前だった?)なんかもいたそうだ。




 「ローザルクセンブルグ」のボーカルで、京大の工学部の学生だったクドミ君(本名)と妻は同じ京大軽音楽部だった。クドミ氏はその後、知ってる人は知っているロックバンド「ボガンボス」のボーカル(「どんと」いうニックネーム)として名を馳せた。特集記事の中の「ボガンボス」のインタビューを読みながら、妻が「でも、彼は急死しちゃったのよね」とつぶやいていた。




 アーティストっていいですね。ジョン・レノンしかり。ボブ・マーレーしかり。本人がいなくなった後でも、その人の音楽(作品)はファンの心に永遠に残る。そう考えてみると、やはり歴代のアメリカ大統領より、ビートルズの方が世界に与えた影響は大きいと思う。音楽を通じて政治のメッセージを伝えようというプロジェクトは、まさにこの認識からスタートした。




 大臣をやろうが、党幹部になろうが、政治家なんて(引退すれば)すぐに忘れ去られてしまう存在だ。現内閣の全閣僚の名前を間違えずに言える国民がどれだけいるだろうか。三代前の内閣の大蔵大臣と農林大臣が誰だったかと聞かれたら、国会議員だって言葉につまるだろう。さて、山本一太は、政治家として一体何を残せるだろうか。