昨年の参議院選挙の前(一年近くにわたり)、地元の一部の実力者?から、「山本一太は評判が悪い」という噂を流された。この方々に受けが良くなかったことは間違いない。が、意図的に「評価が芳しくない」というイメージを広めようという動きだったように思う。面と向かって「あんたは県民から支持されていない。後援会組織もガタガタだ」なんて言われたこともあった。

 ところが実際に群馬県を歩いて見ると、一般の有権者からの反応は違っていた。農家のおばあちゃんは、「一太さんを一生応援するよ」と言ってくれた。中小企業の若手社長が、「若手なんだからそのまま突き抜けていったほうがいい」と励ましてくれた。商店街の元気なオッカサンが、「一太君のファンだからね。頑張りなよ」と言いながらがっちりと抱き締めてくれた。選挙の結果を見て、「ああ、やっぱり自分の感覚は正しかった」と思った。一部のエラーイ方々が国会議員を製造出来た時代はとっくに終わっている。政治家は(自分と同じ)一人一人の庶民の思いに支えられているということを、改めて痛感した。

 最近、友人の政治ジャーナリストが、「参院自民党の中でへんな動きがあるようだから注意したほうがいい」とアドバイスしてくれた。ひとことで言うと、誰かの「求心力」を奪おうという作戦のようだ。どんなに喉から出かかっても、自分がけして他の政治家に言わないと決めているセリフがある。それは、「あの政治家とは、つきあわないほうがいい」という言葉だ。これって、価値観の違うものを排除しようとする日本社会の悪しき慣習が、そのまま凝縮されたフレーズだと思いませんか。

 ま、自分のやり方に反発があるのは当然だろう。停滞と年功序列の府である参議院の秩序を壊す異端児、参院自民党が敵視する?小泉改革を支持する決死隊リーダー、TVメディアで勝手なことを言う唯一の?参議院議員、といったレッテルを張られているのだから。正直言って、誰にどんな悪口を言われても、ほとんど気にしていない。もともと「自分以外は皆、ライバル」である政治の世界に「甘っちょろい友情」などというものは存在しないからだ。

 よく、「あいつは刎頸の友、政治の盟友だ」などというクサイことをいう政治家がいるが、こんなセリフを信用する国会議員はいない。昨日までは同じ陣営で戦っていた同僚議員と、今日は政局で激しく競っていたりする。同じ派閥の中のポスト争いで敗れた議員が、それまで仲良しクラブに所属していた他の議員の中傷を始める。「ずっとついていきます」なんて言っていたボスが窮地の陥るや否や、平気で裏切る。過去7年間、そんなシーンを嫌というほど目にしてきた。

 常に、政界に「本当に信頼出来る同志(政治家)が5人いれば、それで十分」と思っている。さらに本音で言うと、その5人にメンバーの入れ替えが起こってもいいと考えている。基準は極めてシンプル。

1.政治家として尊敬出来る、又は自分にない魅力や能力を持った人物であること

2.一緒に何かをやりたい、創りあげたいと思える議員であること

3.たとえ政治家でなくてもつき合いたいと思える人間(これが最も重要)であること

だ。たとえば、河野太郎氏や世耕弘成氏なんかとは(お互いに政治家を続けようがやめようが)、ずっとつき合っていきたいと思う。むこうからイヤだと言われたら仕方がないけど。

 三十名のフワーっとした議員連盟より、同じ志を共有する数名の勉強会のほうがよっぽど強力だ。5人の政治家が結束し、死に物狂いでやれば、総理大臣だって作れるだろう。政治とは、そういうものだ。少なくとも「一緒にやりたい5人」がいる自分は、政治家として十二分にラッキーだ。なんとなく回りを見回して見る。大したこともない人事で悪知恵を振り回し、実は一人の盟友も持っていない政治家のほうがずっと多い気がする。