自民党の筆頭理事として、参議院外交防衛委員会に留まることになった。暗黒時代の参議院で、唯一与えられた適材敵所のポストだ。まあ、体勢としては、十二分でしょう。そろそろ得意の勝手な?ポスト創りに取りかからねばならない。

 本日は、朝から党本部でODA改革ワーキングチームに参加した。委員長は高村元外相、事務局長が武見参院議員という強力な布陣だ。外交部会としての最終提言に向け、活発に議論を重ねていくことになる。午前10時から久々の参議院本会議。東京での戦いが、いよいよ始まった。

 さて、昨日、父の代からお世話になっている前橋市のある社長が、「一太君、最近、頑張ってるね。先代のお父さんもきっと喜んでるよ!」と声をかけてくれた。会社の壁に張られたままの父の古いポスターを見ながら、久々に自分が二世議員であるという事実を噛みしめた。

 7年前に亡くなった父は、山本富雄という生っ粋の党人派政治家だった。若い頃はスキーの名選手として鳴らし、オリンピックで日本チームのコーチまで務めた。祖父から受けついだ老舗の旅館を経営しながら、草津町の町会議員を三期やり、38歳で群馬県議会へ。やはり三期目という異例の若さで県連の幹事長を奪い取り、そのまま知事選に出ようとして失敗。すかさず、国政に飛び出した。

 故福田赳夫元総理の側近として、地元で選挙のキャンペーンを取りしきった。参院自民党では国会対策委員長、幹事長をつとめあげた。第二次海部内閣では農水大臣に就任。参院自民党の幹事長だった細川内閣時代には、政治改革法案を参議院で否決した立役者として、一躍名を馳せた。派閥では、参院三塚派(当時)のまとめ役。参議院では押しも押されぬ実力者だった。

 農水大臣を終わったあたりからだろうか。その父が、会う度に「政治に興味はないか」「秘書としてオレの仕事を手伝う気はないか」と言うようになった。その都度、「残念ですが、そんな気はありません」と答えていた。そうこうしているうちに、ニューヨークの国連機関に勤務することになり、渡米した。翌年、夏の休暇で日本に戻った際、麹町の議員宿舎に両親を訪ねた。母の手料理で一緒に夕食をすませた後、お茶を飲みながら二人きりで話した。

 「オレの政治的な後継者はお前しかいない。ずっとそう思ってきた。」父は、突然そう、切り出した。「正式に言うが、事務所を手伝ってくれないか。」ああきたなと思いつつ、「その気持ちは嬉しいけど、答えはノーです。一度、聴きたいと思ってたんだけど、なんでオヤジさんがオレに政治をつがせたいと考えているのかが、よく分からない。だいたい向いてないし。それに、政治ってファミリービジネスじゃないでしょう?」父はしめたという表情を抑えながら、こう言った。「政治家の一番大事な資質は、センシティビティー(感受性)だ。有権者が何を考え、時代がどう動いていくかを感じ取るアンテナがなければならない。お前はそういうものを持ってる。それに、これからの政治家、特に国会議員は国際感覚がなければダメだ!」(すごい親バカでしょう?)うーんと言いながら首をかしげていると、ニッコリ笑いながら、「まあ、今はそう言ってるけど、必ず政治に入ることになるよ。オレの言うことは大抵あたるからな」とつけ加えていた。

 幸か不幸か、父の予言通り、政治家になった。気がつけば二回の選挙を勝ち抜き、7年目に入っている。生前の父親を知る中央の先輩議員から、よく、「あんたは、お父さんとずい分違うタイプだなあ」と言われる。先輩方の持つオヤジさんのイメージは、党の幹部として参院自民党全体を調整する気配りの人。けして永田町のルールを踏み外さない信義の人という感じのようだ。参院の秩序や他人の迷惑もかえりみず、勝手に突っ走る過激な山本一太とは違うということだろう。

 実は最近、父のことを書いた古い雑誌のコピーを見つけた。当時、県会の暴れん坊だったオヤジさんの言葉が紹介されていた。「年功序列や派閥均衡の人事は良くない。若手で結束して長老に文句を言ってるところだ!」あれ、れ?どっかで聞いたようなセリフだぞ。なーんだ。若い頃はやっぱり同じようなこと、やってたんじゃないか!

 似てるといえば、先日、姉(長女)がとっておきの話をひとつしてくれた。「あのね、以前お父さんに聞いたことがあるんだけど、お父さん、若い頃、草津町の町会議員選挙に出たでしょう。その時、仲町の湯畑(草津温泉の名所の一つ)に、ミカン箱ひとつ持って演説に行ったんだって。聴衆はお母さん一人だけ。当時、そんなことやる人は誰もいなくて、皆に異端児扱いされたらしいわよ。いっちゃんの遊説好きはお父さんに似たんだと思う。いつも新しいことにチャレンジしてたのよね!」なーんだ、やってることそっくりじゃないか!親子のDNAってあるもんなんだ。そう言えば、農水大臣の頃は、宿舎に米国人を招いて、一生懸命英語の勉強もやっていた。「オレがもっと語学が出来たら、各国の議員と直接ネットワークを作れるのに...」とも話していたそうだ。「やっぱり、いっちゃんはお父さんがやりたかったことを、やってるのかも知れない。不思議だわね。」姉がしきりにつぶやいていた。

 政治家が活躍するための環境や条件は時代とともに変わる。今、山本富雄が政界にデビューしても、光を放つことは出来ないだろう。これからの国会議員は、どんなに根回しや気配りが得意でも、政局の勘が冴えていても、官僚とわたりあえる政策の知識や国際感覚、発信力がなければ「求心力」を生み出せないからだ。それはともかく、一人の人間としても、政治家としても、そして男としても(最後まで自分勝手で、強引だったが)本当にカッコいいオヤジだった。好きだったし、尊敬していた。

 ただし、父親が歩んだ参議院議員としてのいわゆる最高のエリートコース:主要委員会の理事—主要な政務次官(通産政務次官)—主要な委員会の委員長(大蔵委員長)—国会対策委員長—農水大臣(参院自民党初)—幹事長(生きていたら、間違いなく議員会長—議長ということになっていただろう)を目指すつもりは毛頭ない。だいたい、ポストという点から見れば、最初から、党や政府の役職につく頻度も中身(大臣)も衆議院に遠く及ばない。一回大臣をやって「一丁上がり」になるパターンをたどるだけのことだ。

 そんなことを考えていたら、昨晩、何年かぶりに故郷の夢を見た。温泉の煙りが立ちのぼる湯畑の広場にミカン箱を置き、その上でマイクを持つ父と、父の演説を一人で熱心に聴いている母の映像が眼前に広がっていた。その様子がとても微笑ましく、特に母(ちゃんと若くなっている)の姿がいじらしかった。なぜか、胸がしめつけられる思いがした。

 政治は、まさに「一寸先は闇」という表現がぴったりの世界。このあいだまでマスコミの寵児だった議員が辞職に追い込まれ、未来の総理候補がスキャンダルで政界を追われる。昨日まで元気だった人が急病で倒れると思えば、落ちないはずの選挙で不覚を取る議員がいる。明日は何があるか分からない。だから一日一日、後悔のないように全力を尽くさねばならない。(あれ、誰かさんもそんなこと言ってたなあ。)

 もちろん、いざという時に政治家をやめる覚悟は、常に出来ている。他の道で食べていく自信もある。が、国会議員であるうちは、この仕事に全身全霊をかけたい。それは単にオヤジさんの夢を引き継いでいくためというより、応援してくれた多くの人達の思いを背負い、そうした人々の夢を実現していかねばならない責任があるからだ。

追伸:

1.二世議員であることは、自分の原罪だと思っている。もしかしたらもっと活躍したかもしれない他人のチャンスを奪って政界に入った。7年間、地元のどんな小さな会合でも、国会の委員会の質問でも、「山本一太は政治家としての資質を備えている」ことを証明するため、真剣勝負でやってきた。自分には、これからもそのことを示し続ける義務があると思っている。世襲ではなく能力で政界に参入出来るシステムを整備しない限り、政治に優秀な人材は集まらない。予備選挙の導入は不可欠だ。

2.今回の人事の件について、同じグループの先輩議員が人事責任者に確かめてくれた。(少しすっきりした。ありがとうございました。)返ってきた答えは、「大意はない。適性で選んだ結果」ということだったようだ。少し怒るフリでもしないとなめられると思ったが、この話はこれでオシマイ。大したポストでもない。