「奇跡って…あるのかなぁ…」
イチロウは、職場である施設の食堂でポツンと呟いた。
そこには、入所している老人が10人ほどいた。
みな、昼食が終わった午後のひと時を、椅子に座りながらウトウトと過ごしている。
「イチロウちゃん、何か言ったかい?」
テーブルをはさんで向かい側にいるおばあちゃんが、イチロウの顔を覗き込むように聞いた。
「え?!いやぁ、何でもないよ(笑)。
芳江おばあちゃん、ゴメンね。起こしちゃったかなぁ?」
そんなイチロウの言葉など全く聞かず、芳江は両隣のおばあちゃんの体を揺さぶる。
「ちょっと、ちょっと、和子さん!智恵さん!」
「うぅ?!」
両脇の二人が起こされる。
芳江、和子、智恵…
この三人のおばあちゃんはいつも一緒にいる。
三人ともイチロウがお気に入りのようだ。
芳江おばあちゃんは、三人の中で一番元気がある。
元気があるといっても、口であるが…
体は不自由だが、口と頭の回転が速い。
三人のリーダー的存在だ。
和子おばあちゃんは、おっとりしている。
元々京都に住んでいたが、旦那さんが亡くなり、ひとりになってしまった。
東京で居を構えていた子供が心配し、京都から連れてきたのだ。
3年前に脳梗塞で倒れ足が利かなくなり、1年前からここにお世話になっている。
品のいいおばあちゃんだ。
そして、智恵おばあちゃん…
一番長く入所している。
どういうことがあってここにいるのか、誰も知らない。
耳は聞こえているようだが、反応がない。話もできない。
他の二人のおばあちゃんの話を、傍らでただ無表情に聞いている。
芳江おばあちゃんが可哀想だと思ったのか、必ず仲間に入れている。
何か放っておけないんだろう。
イチロウも毎日声を掛けている。
イチロウの場合は、智恵おばあちゃんの何か神秘的な雰囲気が気に掛かっている。
毎日率先して車椅子を押し、反応がないのに長い時間話し続けることもある。
「イチロウちゃん、おかしいんだよ!」
状況が段々と分かってきたのか、和子は芳江と一緒にイチロウのほうを向く。
智恵だけは、最初から前を向いているのだが…
「わたしも、最近おかしいと思ってたんですよ。
何かポカーンとして…
お体、どこか悪いんですかねぇ。」
和子はイチロウに聞かれないように話しているつもりだったが、普段から耳の遠い者どおしで話しているので声が大きい。
その言葉はイチロウの耳にしっかりと届いている。
「なんでもないよ(笑)。」
力のない言葉がイチロウから返ってくる。
「なんでもないこたぁーないだろ。
今までギャーギャー子供みたいに騒いでた男が、急に静かになるもんか。」
芳江が捲し立てる。
「ぎゃーぎゃーって…
俺も大人なんだからこんな時もあるよ(笑)。」
「体は大丈夫みたいですね、良かった…
お偉いさんから叱られたぐらいじゃ響かないお人だから…
うーん…、何なんですかね~。」
和子が続く…
何となくその場に居づらくなったイチロウは、さっと立ち上がり、智恵の車椅子をつかんだ。
「智恵おばあちゃん、部屋に帰ってオシメ換えてもらおうね。」
そう言うと、無理やり智恵の車椅子を押してしまった。
食堂を出て、部屋までの廊下…
車椅子をゆっくりと押しながら、イチロウはいつものように智恵に語りかける。
「おばあちゃん…
俺やっぱ変かなぁ~?
………
実は俺、恋してるんだよ…。
おばあちゃんにだけ話すね(笑)。」
イチロウは、彼女との出会い、彼女とのデート、デートで話したこと、彼女の目が不自由なこと、そして何より真剣に彼女が好きだということを話し続けた。
「俺、どうしていいのか分からないんだ。
苦しくって、苦しくって…。
そして情けなくって、情けなくって…。
やっぱり俺じゃだめなんだな。彼女を幸せにはできないよな。だめな男だから(笑)。」
部屋に着き、ベッドに移すため智恵を抱きかかえながら吐き出すように言った。
「うん、これで良しとっ。じゃぁ、おばあちゃん。オシメのお姉さん呼ぶからね(笑)。」
そう言って智恵おばあちゃんの手を握りながら、頭の上にあるナースコールのボタンを押そうとした時…
奇跡が起こった