世界史を解りやすく(4)ローマ帝国 | 技術士を目指す人の会

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勉学を通じて成長をナビゲートする講師。
2008年に技術士合格後、「技術士を目指す人の会」を立ち上げ、多数の技術士を輩出。自身も勉学ノウハウを活かして行政書士、世界史検定2級、電験三種に合格。

世界史に書いてあることを、理系の人にも解るように説明したいと思います。

今日は、ローマ帝国についてです。

山川の世界史では、P40からP46についてです。

 

山川の世界史では、ローマ帝国の話はP51で終わります。

その後は、アジア、イスラムの内容に移ります。まったく別の世界です。

再びローマが出てくるのはP120。

その頃には、ローマのことなんて忘れています。

学校の授業についていけません。

こうして世界史が嫌いになっていくのだと思います。

 

このため、P51が終了する時点で、ローマ帝国の建国から滅亡までの流れを、少し理解しておく必要があると思います。

ローマ帝国ですが、建国から滅亡まで、ざっくりと生理すると6段階になります。

(山川の教科書の掲載ページも併記しています)

 

①BC753年〜BC27年 共和政ローマ P40〜P43

②BC27年 ローマ帝国 P44

③284年  専制君主政 P46

④395年  西ローマ帝国と東ローマ帝国に分裂 P45

⑤476年  西ローマ帝国滅亡 P46

⑥1453年 東ローマ帝国(=ビザンツ帝国)滅亡 P133

 

 

●共和政ローマとは

王様が国を支配して、政治をしているのが王政です。

子供達が世襲します。

これに対して、国民が政治をするのが共和政です。

国民全員で政治をできないので、選挙等で代表者を決めて、選ばれた複数名が政治をします。

国民が選挙で代表者を決めるため、国民に国政の決定権があるわけです。

ただし、この時代の共和政は、ちょっと違います。

この時代、貴族と平民と奴隷がいました。でも、政治をしていたのは貴族です。

生まれた時から貴族か平民か決まっていたわけですから、現在と違い、不公平なシステムではあるのですが、王家が政治をするのではなく複数の貴族が政治をするという意味で共和政なんです。

貴族で構成される元老院というものがあって、300名くらいはいたそうです。

この時代、元老院が力を持っていたようです。

 

●ローマ帝国とは

この頃、ローマは目覚ましく発展し、人口が増大していきます。

ローマだけでは、農地、資源、奴隷が不足するようになります。

こうして、他国に戦争を挑むようになります。

その当時のローマは最強でした。

多くの国を支配して、様々な物資を吸い上げます。

 

戦争、安価な物資の流通により、武力を有する強い平民と、富を有するリッチな平民が出現します。

平民の地位が向上します。

貴族との力の差がなくなってきます。

内乱がおきるようになります。

こうしたなか、BC60年代〜BC40年代、特に有力な3人が登場し、内乱をおさめて、ローマを牛耳るようになります。

これが三頭政治です。

最初は3人でバランスがとれていたんですが、一人の人間に権力が集中するようになります。

 

(山川 教科書より)

 

BC27年、元老院は、オクタヴィアヌスが最高権力者であることを正式に認めます。

初代皇帝の誕生です。

こうしてローマ帝国がスタートします。

その後、いろいろと皇帝はかわりますが、戦争を繰り返し、ローマ帝国は領土を広げます。

そして,ヨーロッパ全域を支配します。

 

 (山川 教科書より)

 

●専制君主政

ローマ帝国になったといっても、元老院は存在していました。

284年、ディオクレティアヌスは、元老院の権限を奪い、自分の配下に集めた役人を使って政治をするうようになります。

中央集権化です。

同時に、ディオクレティアヌスは、直属の軍隊を設けます。

しかも、自分を神とし礼拝させました。つまり、「オレ様がルールブック」になったわけです。

こうして、ローマは専制君主政に移行します。この時代の専制君主政をドミナトゥスと言います。

ちなみに、ディオクレティアヌスは、広大なローマ帝国を東西に分けて、それぞれにリーダー(正帝・副帝)を置いていました。

この時点で、ローマ帝国は東西分裂する要素があったわけですね。

 

●東西分裂

広大なローマ帝国ですが、内輪もめで分裂の危機を迎えます。

そこで、313年、コンスタンティヌスは、キリスト教を公認します。

宗教の信仰と、教会の権威を利用して、領土に住む、貴族、平民に統一感を与えて、円滑に統治をしようとしたわけです。

しかしながら、コンスタンティノープル死んでしまうと、争いがおきます。

395年、ローマ帝国は、ギリシア・トルコ中心の「東ローマ帝国」と、イタリア中心の「西ローマ帝国」に分裂してしまいます。

 

●西ローマ帝国と東ローマ帝国の滅亡

476年、西ローマ帝国は、ゲルマン人によって滅ぼされてしまいます。

実は、コンスタンティヌスの時代、首都を西のローマから東のビザンティウムに移していました。西ローマ弱かったようですね。

 

その後、ローマ教会が絶大な権力を持つようになり,962年、ローマ教会現在のドイツを神聖ローマ帝国として認めます。ローマ帝国の復活です(山川の教科書、P127)。

この辺がちょっとややこしいですね。

ちなみに、この神聖ローマ帝国、1806年に滅亡します(P253)。

 

一方、東ローマ帝国ですが、ビザンツ帝国という名前で呼ばれるようになります。

東ローマ帝国は、西に比べて、経済が健全だったようです。

しかし、1453年、オスマン帝国に滅ぼされてしまいます。

 

これが、ローマ帝国のざっくりとした流れです。

 

※世界史を解りやすく(3)市民という概念については、 こちら をどうぞ。